インバウンドコラム
サステナビリティへの意識が世界的に高まる中、日本でも国際基準を活用した持続可能な観光地域づくりに取り組む自治体が増えています。取り組みの背景やきっかけは様々ですが、中には1人のサステナビリティ・コーディネーターの存在が契機となったケースも少なくありません。
岩手県遠野市もその一つ。2023年3月に策定した遠野市観光推進基本計画で「持続可能な観光まちづくり」の目標を掲げ、観光庁の事業も活用しながら、国際基準を活用した取り組みを推進しています。
今回紹介するのは、同市でサステナビリティ・コーディネーターを務める多田陽香氏。多田氏は遠野市観光推進基本計画の策定にも携わり、「観光を通じた、住んで誇れるまちづくりを故郷にもたらしたい」と自ら率先して行動してきました。どのように地域や行政に働きかけ、どのような実務を担っているのか。コーディネーターとしての視点からお話を伺います。
▲旧宮守村(現在は遠野市と合併)のわさび農家で生まれ育った多田陽香氏
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地方の可能性を感じ、故郷遠野市の地域コーディネーターに就任
久保:遠野市は「日本の原風景」と称される深い山間部の街で、郷土芸能や民話が多く残っており、柳田国男の「遠野物語」の舞台としても知られています。多田さんは同市の出身で、大学進学で上京し海外留学を経験後、卒業後は都内ITベンダーに勤務していたそうですね。故郷へUターンするきっかけはなんだったのでしょう。
多田:東京での仕事は収入もあり満足できてはいましたが、もっと社会との繋がりを実感できる暮らしがしたいと思うようになり、地方への移住を考え始めました。そんな中、ふと地元に目を向けると、若い移住者が増え、店を開いたりビールの醸造所を立ち上げたりと、新しい動きや変化が起こっていることを知ったんです。今戻ったら私も何か面白いことに関われるかもしれないと感じ、2018年にUターンを決意しました。
▲遠野市は、岩手県を縦断する北上山地の中に開けた盆地に位置する
久保:地方創生の一環として、地域おこし協力隊制度を活用したローカルビジネス創出事業が本格化した頃ですよね。遠野市もその先進地のひとつだったのでしょう。
多田:そうですね。私は、ローカルベンチャー事業を推進する「Next Commons Lab」で、地域おこし協力隊の移住促進や起業支援を行う地域コーディネーターを務めることになりました。
久保:この時は、観光業ではなく協力隊のサポートに従事していたのですね。
多田:はい。でも移住者にまちの魅力をしっかりと伝えるには、もっと地域のことを学ぶ必要があると思い、2019年11月から「遠野ふるさと観光ガイド」の養成講座を受講することにしました。2020年3月に修了証を受け取って以降は、ボランティアガイドとして観光客の案内やツアーの企画をするなど、少しずつ観光の分野に足を踏み入れていったという感じです。
▲観光資源について知識を深め、認定ガイドとして活躍
観光推進基本計画の策定を機に、持続可能な観光の推進役に
久保:ガイドとして観光協会との繋がりができたとはいえ、その時点では行政と直接関わることはなかったかと思います。多田さんはどのような経緯で、遠野市の観光施策に携わることになったのでしょうか。
多田:私がガイドを初めてしばらく経った2022年6月頃、遠野市では観光振興のための新たな組織体制の方向性を検討し、遠野市の観光計画も策定することが決まりました。その策定にあたって、実際に地域の現場で活動している人の意見を取り入れようということになり、私も「遠野の観光を考えるワーキングメンバー」の一人としてお声がけいただいたんです。これを機に、行政とも公式に関わることになりました。
▲16年ぶりに改訂された「遠野市観光推進基本構想」「遠野市観光推進基本計画」
久保:地域コーディネーターとしての活躍に加え、観光の分野でも精力的に活動する姿が目に留まったのだと思います。遠野市では2023年3月に遠野市観光推進基本計画を策定し、翌月にはその計画に基づいた持続可能な観光まちづくりを推進する組織として、官民一体の観光協議会「観光マネジメントボード遠野」が新たに設立されましたね。まさに変革期だったのでは。
多田:そうなんです。同時期に、協議会の事務局を担う株式会社遠野ふるさと商社が地域DMOの登録を目指すことになり、そのタイミングで私も同社に入社して立ち上げを推進する役割を担いました。その後、協議会の事務局長として本格的に持続可能な観光まちづくりに携わることになったのです。
▲市や観光協会、民間企業などで構成する「観光マネジメントボード遠野」
「観光」の捉え方を大きく変える、サステナブルツーリズムとの出会い
久保:そもそも多田さんは、以前から持続可能な観光に関心があったのでしょうか。
多田:ガイドとして観光に携わるようになってから、2021年の始め頃に、隣接する釜石市が持続可能な観光の国際認証取得を目指していることを知りました。詳しいことが聞きたくてコンタクトを取ったところ、久保さんからサステナブルツーリズムについての話を伺い、とても興味が湧いたんです。すると、2022年2月に釜石市で開催されたGSTC(世界持続可能観光協議会:Global Sustainable Tourism Council)のトレーニングプログラムにも声掛けいただいて、参加させてもらえることになりました。
久保:3日間のトレーニングに実際参加してみて、どうでしたか?
多田:文化振興や環境保護の重要性、また地域で扱うお土産ひとつにしても、どれだけ地域にお金が還元されているかといった指標を持つことの大切さなど、これまで意識していなかった多くのことに気づかされました。
私はそれまで、「観光」とは訪れた人が地域を一時的に楽しむもので、まちづくりの本質とは関係ないと感じていたのですが、「観光のために地域を利用するのではなく、地域のために観光を活用する」という考え方を知り、衝撃を受けたんです。遠野市でも早く実践したいという思いがどんどん強くなっていきました。
久保:持続可能な観光を故郷にも取り入れたいという思いが芽生えたものの、その時はまだガイドの1人で行政との繋がりがなかった頃ですよね。どのように行動に移していったのでしょう。
多田:2022年4月に観光庁の「持続可能な観光推進モデル事業」の公募があり、採択されれば遠野市でもGSTCトレーニングを開催できるということでした。そこで申請書なども私が作成するという形で遠野市観光協会に働きかけ、応募にこぎつけたんです。
▲GSTCトレーニングの様子。多田氏は、サステナブルツーリズムの知識や理解度を評価する試験を受けて合格し、GSTC Professional認証を取得した
久保:多田さんと観光協会との信頼関係があったからこそだと思いますが、その熱意と行動力には驚きです。しかも見事採択され、同事業のプロジェクトマネージャーといった立場に立つことになったのですよね。
多田:「とにかくやりたい」の一心で、そうなってしまいました(笑)。でも採択とほぼ同時期に、遠野市観光推進基本計画の策定に携わるようになったことが大きかったです。事業で派遣された専門家のアドバイスをいただいたり、「日本版持続可能な観光ガイドライン(JSTS-D)」に沿って、地域の持続可能性に関する現状のアセスメントを行ったりと、基本計画策定においても事業をうまく活用できる結果となりました。
久保:念願だった遠野市でのGSTCトレーニングプログラムにはどのような方が参加したのですか。
多田:市内の観光施設職員など、遠野市観光推進基本計画のワーキングメンバーが主でした。それによって、自然な流れで計画の中に持続可能な観光を盛り込んでいくことができたのだと思います。
久保:ある意味、多田さんの行動や提言がきっかけで、遠野市が持続可能な観光地域づくりへと舵を切ったと言えますね。その時点ですでに、サステナビティコーディネーターのポジションとして立ち回られていたように感じます。
指標に基づいた調査結果を可視化、地域住民にわかりやすく共有
久保:さらに翌年の2023年も、今度は「遠野ふるさと商社」として持続可能な観光推進モデル事業に応募し、再び採択されました。「観光による経済活性化を示すためのデータ調査と目標値策定」が事業名となっていますが、具体的にはどんなことに取り組んだのですか。
多田:遠野市では地域DMOが立ち上がったばかりだったので、初期のマネジメントに関わる実証事業ということで、手法をアドバイスいただきながら観光の満足度や消費額の調査を行いました。
久保:JSTS-Dに基づくアセスメントも前年に引き続き行ったと思いますが、その結果を協議会でも共有しているのでしょうか。
多田:初年度と2年目のパフォーマンスを比較し、ポイントが上がって改善された項目をレポートにまとめて報告しました。協議会という組織体制ができたことでマネジメントの部分が向上し、ようやくスタート地点に立ったという認識を共有できたとは思います。ただ現在の観光施策ではプロモーションに重点が置かれており、まずはその部分を整えてから受け入れ環境や文化環境の整備といった次のステップに進む必要があるので、情報共有を丁寧に行いながらひとつずつ進めていきたいと考えています。
久保:まずは持続可能な観光についての理解を深めてもらい、様子をみながら提案の範囲を広げていきたいということですね。市民に対してはどのような周知を行っているのでしょう。
多田:「これからの遠野の観光まちづくりを考えるセミナー」を開催し、その中で持続可能な観光についての概要や取り組みの意図なども基本的なポイントに絞ってお話しました。
▲セミナーでは、2023年度の取り組みの成果やマーケテイングレポート、翌年度の方針も説明した
久保:みなさんの反応はいかがでしたか。
多田:遠野市では、市民が大切に思う地域の宝ものを「遠野遺産」として認定し、保護や活用を市民協働で図っていくなど、文化資源や自然を守っていこうという意識が根付いています。市民の方々も地域への愛着がとても強いので、それらを将来に継承していくという点では頷いてくださる方が多かったです。
久保:確かにそういう意味で、遠野市とサステナブルツーリズムの親和性はすごく高いと思います。JSTS-Dを活用して地域のポテンシャルの高さを可視化し、広く市民にも共有していけたらいいですね。
地域の意識改革を目的に、サステナブルツーリズムのアワードへエントリー
久保:価値を可視化するという意味では、今年2024年、国際認証団体グリーン・デスティネーションズが主催するコンペティション「Top 100 Stories 2024」に初エントリーされたとか。
多田:持続可能な観光がいかに世界で注目され、今取り組むべきものであるかということを、広く認識してもらえる機会になればと思いました。エントリーや入選そのものが持続可能な観光の本質だとは考えていませんが、これまで取り組んできたことが評価され、多くの方に関心を寄せてもらえるという点では、意味があると感じています。
久保:持続可能な観光への理解を促すために、「Top 100 Stories」を活用するということですね。
多田:観光の成果を評価する時、どうしても入込客数だけに目がいきがちですが、単に数が増えればいいわけではありません。観光を通じて、地域への経済効果や市民が安心して暮らせる持続可能な環境づくりがもたらされることを示すため、こうした表彰制度を活用したいと考えています。
久保:取り組みの実績を可視化して外部から評価してもらうことで、自分たちの地域により誇りを持つきっかけになればいいですね。それによって観光の評価の仕方も、「数だけを見る」からもっと広い視点に変わっていくのではないでしょうか。
▲持続可能な観光の取り組みに関する事例の提出では、市民で文化遺産を守っていく「遠野遺産」などを取り上げた
サステナビリティ・コーディネーターとして求められること
久保:多田さんがサステナビリティ・コーディネーターとして立ち回る上で、求められる資質やスキルにはどんなものがあると思いますか?
多田:プレイヤーの立場に立つのではなく、常に中立を保ち周囲の活躍を心から喜べること。また、積極的に外に出て多くの人とコミュニケーションを取るのが苦にならないこと、などでしょうか。スキル面では、住民や関係者に取り組みなどを理解してもらうよう、的確で分かりやすい資料を作成することが期待されているかと思います。
久保:地域の調整役としてさまざまな立場や分野の人々と関係を築き、協力していくためには対人能力はとても重要ですね。最後に、多田さんが今後取り組んでいきたい課題や目標があれば教えてください。
多田:持続可能な地域づくりの実現においては、観光、まちづくり、移住、産業といったさまざまな部署を横断する協力体制を築き、明確な目標設定を掲げて地域DMOで一貫してマネジメントすることが理想だと思います。こうした視点を持ってもらえるよう、サステナビリティ・コーディネーターとして行政に対しても働きかけていきたいです。
久保:政策提言の機会をオフィシャルに設けられるか、その提言をいかに受け入れてもらえるかは、信頼関係を築くこと、あるいはサステナビリティ・コーディネーターが一定の権限やルールの中で発言力を持つことが鍵だと思います。そうなれば、サステナビリティ・コーディネーターの社会的地位の向上にも繋がっていくでしょう。
多田:また、取り組みを持続させるためには、私がいなくても機能する仕組みを作ることが必要だと感じています。調査やセミナー資料の作成などは、基盤が整えば年間のルーティーンとして回るでしょう。まずは最初の3年間で土台をしっかり築き、人材の育成にも力を入れていきたいです。
久保:これまでは多田さんの属人的な努力によるところが大きかったので、今後はそれを組織的に仕組み化する段階にありますね。現在の立場を活かして継続的に取り組むことで、さらなる変化を生み出せると思います。今後の活躍にも期待しています。