インタビュー
奈良県のインバウンドには、長年指摘されてきた課題があります。観光客は多く訪れるものの、消費額は伸びず、訪問エリアも限られ、滞在時間も短い。いわば「安い・浅い・狭い」という状況です。
奈良県観光局でDX推進を担当する山裕成さんは、こうした課題を観光データの分析を通じて可視化し、施策づくりに生かしてきました。行政担当者として観光政策を立案する一方、週末は観光ガイドとして自らツアーを運営し、観光客と直接向き合っています。
データと現場、二つの視点を行き来するなかで、奈良の観光の課題はどのように見えてきたのか。そして、その課題に対してどのような打ち手を考えてきたのか。奈良県の観光施策の現在地を聞きました。
行政と現場、二つの立場から観光に向き合う
― 現在のお仕事と、これまでの経歴を教えてください。
2021年に奈良県庁の観光部門へ配属され、現在は観光局でDX推進を担当しています。奈良県の観光データを整備し、事業者や地域が活用できる形で共有する仕組みづくりなど、データやテクノロジーを活用した観光施策に携わっています。
もともとは貿易関係の商社に勤務し、海外駐在も経験しました。輸入流通やブランディング、グローバルマーケティングなどの業務に携わるなかで、日本のローカルが持つ価値を世界に発信する仕事に関わりたいと考えるようになりました。そうした思いから2018年に奈良県庁に入りました。
現在は、奈良県の観光データをまとめて閲覧できるポータルサイト「みるなら」のプロデュースや、奈良公園での音声ガイド導入など、観光の現場で活用できる仕組みづくりを進めています。観光客の動きや消費の状況をデータで把握しながら、それを県内の事業者や地域の取り組みにどう生かしていくかを考える仕事です。
一方で、2025年10月からは副業としてインバウンド向けの観光ガイド事業も始めました。日本最古の道といわれる「山の辺の道」を歩くガイドツアーや、奈良公園で夜行性の鹿を観察するナイトトレッキングツアーなどを実施しています。収益の一部は奈良公園の鹿の保護活動に充てるほか、参加者に奈良の特産品である靴下をプレゼントするなど、地域産業と観光を結びつける取り組みも行っています。
奈良インバウンドの構造課題「安い・浅い・狭い」
― 観光客の動向をデータで把握しているということですが、現在の奈良県のインバウンドの状況を教えてください。
奈良県では、観光データをまとめて閲覧できるポータルサイト「みるなら」を整備し、来訪者の動きや消費の状況などを分析しています。そうしたデータを見ていくと、奈良のインバウンドには大きく三つの特徴があることが分かります。奈良県では、それを「安い・浅い・狭い」という言葉で整理しています。
まず「安い」という点です。奈良県の外国人観光客の一人当たり観光消費額は約9000円で、全国でも最も低い水準にあります。大阪や京都からのアクセスが良いこともあり、約9割が日帰り客です。昼間は観光客で賑わっていても、地域で消費される金額は非常に限られています。
次に「浅い」です。奈良を訪れる目的が「奈良公園の鹿にせんべいをあげること」に集約されていることも多く、短時間で体験が完結してしまいます。地域の人との交流や、奈良の歴史や文化、朝晩の風景といった「ローカルの奥行き」に触れるところまで滞在が広がっていないのが現状です。
▲訪日含む大勢の観光客が訪れる奈良公園の鹿
3つ目に「狭い」です。観光客の動線が駅から奈良公園周辺に集中しており、多くの人が奈良公園を訪れてそのまま帰ってしまいます。奈良公園の周辺には多くの社寺などの観光資源がありますが、5割の観光客は奈良公園だけを訪れて滞在を終えています。また奈良県には中部や南部にも魅力的な観光地がありますが、そこまで足を伸ばすケースは多くありません。
こうした状況はここ数年で生まれたものではなく、20年以上前から指摘されてきた構造的な課題でもあります。観光客は多く訪れているにもかかわらず、地域の豊かさにつながりにくい状態が続いています。
鍵は「滞在時間」をどう延ばすか
―「安い・浅い・狭い」という課題に対して、奈良県ではどのようなアプローチを取っているのでしょうか。
三つの課題に共通しているのは、奈良での滞在時間の短さです。
そのため奈良県では、「奈良での滞在時間をどう延ばすか」を施策の軸に考えています。
象徴的なのが「宿泊客が少ない」という課題です。奈良県が外国人観光客向けに行っているインタビュー調査によると、インバウンドの約9割が日帰り客で、多くの観光客が大阪や京都から訪れて数時間で戻ってしまいます。
この状況を見ると、「宿泊施設が足りないのではないか」と考えられがちです。しかし観光庁が発表する宿泊統計のデータを見ると、奈良県の宿泊施設の平均稼働率はおおむね45%前後で推移しています。
このデータからわかることは「奈良に泊まる」理由が十分に生まれていないということです。
奈良県は都市計画の制約などもあり、大規模なホテルが建ちにくい地域です。一方で大阪や京都では大型ホテルの開業が相次ぎ、宿泊供給量は奈良よりも圧倒的に多い状況にあります。

▲奈良市東部に位置する若草山から見た市街地の景色
こうした条件を踏まえると、宿泊施設の整備も重要ですが、それだけでは問題が解決しません。奈良で過ごす時間そのものを延ばし、滞在価値を高める方法も、同時に考えていく必要があります。
そこで人流データを見てみると、大阪や京都から奈良を訪れる観光客の滞在時間帯は、現在10時~14時ごろに集中しており、3~4時間ほどで帰ってしまうケースが多いです。その滞在を1〜2時間延ばすことができれば、夕食や買い物など新たな消費につながる可能性があります。
滞在時間が延びれば、結果として「泊まる」という選択肢も生まれてきます。そのため奈良県では、観光客が奈良で過ごす時間を延ばすための情報や体験をどう提供するかを施策の軸に据えています。
滞在時間を延ばすための情報提供と体験づくり
― その考え方を、具体的にはどのような形で実践しているのでしょうか。
滞在時間を延ばすためには、観光客が奈良で「もう少し過ごしてみよう」と思える情報や体験を用意することが必要です。
奈良には多くの歴史資源や文化がありますが、それらが必ずしも観光客に十分伝わっているとは限りません。奈良公園を訪れて鹿にせんべいをあげて、そのまま帰ってしまうケースも少なくありません。
そこで奈良県では、観光客が奈良の歴史や文化をより深く知りながら滞在できる環境を整える取り組みを進めています。その一つが、奈良公園での音声ガイドの導入です。
2026年1月末に実証実験を開始した「奈良公園公式音声ガイダンス」は、来園者が自身のスマートフォンで利用できる仕組みで、日本語を含め15カ国語に対応しています。売り上げの一部は寄付され、奈良公園の保全や鹿の保護に活用されます。
ガイド不足という課題を補いながら、観光客が自分のペースで奈良の歴史や文化を知ることができる環境を整えることを目指しています。
▲音声ガイダンスのパンフレット
奈良公園周辺の歴史や文化を知るきっかけをつくることで、公園内だけでなく周辺エリアへの回遊も促し、奈良での滞在時間を延ばすことにつなげていきたいと考えています。
奈良の観光施策を支えるデータの仕組み
― こうした施策は、どのような分析や考え方をもとに実施されているのでしょうか。
奈良県では、こうした観光分析を支える基盤としてポータルサイト「みるなら」を活用しています。来訪者の国や地域、交通手段、滞在時間、消費額などのデータを可視化し、県内の観光事業者や地域が自由に閲覧できる仕組みです。
▲奈良県で整備している観光データポータルサイト「みるなら」
先ほどお話しした滞在時間を延ばす施策も、こうした観光データの分析をもとに設計しています。観光客がどこから来て、どこで時間を使い、どこで帰ってしまうのか。そうした行動の傾向を把握することで、奈良の観光の課題や可能性を具体的に見ていくことができます。
この取り組みを始めた背景には、観光データが分散していて現場で活用しづらいという課題がありました。観光統計は公開されていたものの、PDFや生データの形で各所に分かれており、全体像を把握するのは簡単ではありませんでした。
また、人流データや決済データなどは取得コストが高く、小規模な観光事業者が独自に分析するのは難しい状況でした。そこで奈良県では、観光データを整理し、誰でも使える形で公開することを目指しました。
データを「使われる形」にする
― データを公開するだけでは、なかなか現場で活用されないことも多いと思います。
その通りで、データは公開するだけではなかなか使われません。そのため「みるなら」を作る際には、現場の事業者が実際に使える形にすることを意識しました。
県内の観光事業者や関係団体など15団体にヒアリングを行い、「どのようなデータがあれば役に立つのか」を確認しました。宿泊施設やガイド、交通事業者など、それぞれの立場によって必要とする情報は異なるためです。
また、データを公開するだけで終わらせず、事業者向けの勉強会なども行いながら活用方法を共有しています。こうした「現場で使われるデータ」を目指した設計などが評価され「みるなら」はグッドデザイン賞2025を受賞することができました。観光の状況をデータで把握し、価格設定やプロモーションのターゲットを考えるといった使い方が、少しずつ広がってきています。
▲県内の事業者を対象に行った勉強会の様子
観光施策は行政だけで完結するものではありません。地域の事業者が状況を理解し、それぞれが判断できるようになることが重要だと考えています。
現場とデータを往復する観光政策
― 山さん自身、観光施策を考えるうえで、どのようなことを大切にしていますか。
まず大事にしているのは、データをもとに現状を正しく把握することです。ただし、データだけで観光の実態がすべて分かるわけではありません。実際に現場で何が起きているのかを確認し、その差分を見ていくことが重要だと考えています。
副業で観光ガイドとして活動していると、観光客がどこで足を止め、どこで帰ってしまうのかといった行動がより具体的に見えてきます。どんな説明に興味を持つのか、どのタイミングで時間を使うのかなど、データだけでは見えない部分も多くあります。
▲自身もガイドとして活動する山さん
一方で、行政の立場では県全体の観光を俯瞰しながら施策を考える必要があります。データを見て全体の傾向を把握し、現場で起きていることを確認する。その二つを行き来しながら、奈良の観光の課題や可能性を考えていくことを意識しています。
また、他の地域の事例や観光のトレンドも参考にしています。ただ成功事例をそのまま真似するのではなく、「なぜそれが成り立っているのか」「奈良で実現するには何が必要なのか」を考えることが重要だと思っています。
目指すのは「自走する観光」
― そうした取り組みを続けるなかで、奈良県の観光を、今後どのような形にしていきたいと考えていますか。
奈良の観光はこれまで、「人を呼び込むサービス業」として発展してきました。しかしこれからは、そのあり方を少し変えていく必要があると感じています。
例えば、PRを続けなければ集客が止まってしまうような構造では、長期的に持続する観光にはなりません。行政が答えを示し続けるのではなく、地域の事業者が自分たちの状況を理解し、それぞれが判断して動ける状態をつくることが大切だと思っています。
そのためにも、観光データを地域で共有し、事業者が自分たちの観光の状況を把握できる環境を整えていきたいと考えています。そうした基盤があれば、それぞれの地域や事業者が自分たちに合った取り組みを考え、観光を続けていくことができます。
観光は観光事業者だけで成り立つものではありません。交通や宿泊、飲食に加え、ものづくりや農業、林業など、地域のさまざまな産業ともつながっています。
将来的には、観光によって生まれた収益が奈良公園の整備や鹿の保護だけでなく、県全体の文化や景観の保全、地域コミュニティの維持にも循環していく仕組みをつくるなど、観光を地域に根付いた産業として育て、「稼ぐ(観光消費)」「守る(文化・景観)」「繋ぐ(地域・伝統)」の好循環を生み出すことを目指しています。
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