インバウンドコラム
4月29日未明、群馬県藤岡市の関越自動車道上り線で、金沢発東京ディズニーリゾート行きの高速ツアーバスが道路左側の防音壁に衝突し、死傷者46名もの惨事をもたらす事故が起きました。今年のGW期間中、事故原因をめぐる報道が連日のように行われたことはご存じのとおりです。
報道で明るみになったのは、貸切バス業界の内部に見られる無法状態でした。インバウンド関係者にとって看過できないのは、事故を起こしたのが中国インバウンド専門のバス運転手だったことです。業界の現状をこのまま放置すれば、中国人観光客の約7割が利用するインバウンドツアーバスもいつ事故を起こしてもおかしくないことを意味するからです。
実をいうと、昨年10月初旬、ぼくはインバウンドバスの台数を定点観測している新宿5丁目で偶然、河野化山容疑者に会ったことがあります。ですから、インバウンドバス業界の置かれた状況や残留孤児2世としての彼の境遇を思うと、やりきれない気がしたものです。今回は、現行のインバウンドバス業界の何が問題なのか、少し真面目に考えてみたいと思います。
事故はなぜ起きたのか
報道を通じて明らかになってきたことを整理してみましょう。事故はなぜ起きたのか――。
背景には、安さと手軽さで急成長した高速ツアーバスが競争激化で安全面の懸念が生じていたことにあります。高速道路を長距離移動するバスには、道路運送法に基づいて決まったルートを停留所に停まりながら運行する「高速路線バス」と、旅行会社が旅行業法に基づいて募集企画旅行として貸切バスを使って運行する「高速ツアーバス」の2種類があります。今回事故を起こしたのは、後者の「高速ツアーバス」であり、外国人観光客を乗せるインバウンドバスと同じ業界の話です。
貸切バスを運行するバス会社はほとんどが小規模で集客機能が弱いことから、たいていの場合、旅行会社の下請けに甘んじることになるわけですが、近年のツアー代金の激しい安売り競争で経営は追い詰められています。当然それは運転手の労働環境に直結し、過労問題や人命を乗せて運ぶ重責に釣り合わない低待遇を嘆く現場の声が聞かれることになります。
「バス運転手の9割が運転中に睡魔に襲われたことがある」という報道(朝日新聞2012年5月1日)もありましたが、これは総務省がバス運転手500人を対象に実施した勤務実態の調査だけに、実に恐ろしい話です。
こうした状況の中で常態化しているのが、一部のバス運行会社の違法経営です。今回事故を起こしたバス会社の陸援隊(千葉県印西市)は、道路運送法に定められた運行の前後に運転手の健康状態をチェックする点呼をしないなど、安全管理がずさんだったことに加え、容疑者も短期雇用の運転手で、金沢への乗務が初めてだったことなどが国土交通省の監査で判明しています。
さらに、逮捕された容疑者は自分が所有するバスを陸援隊の名義にして、個人で外国人観光客を乗せたインバウンドバスを運行していたことも明らかになりました。関係者に話を聞く限り、こうした違法な経営は「氷山の一角」だといいます。
インバウンド市場への参入を考えている皆さんは、今回の事件を今後起こりうる事態への警鐘として受け取らなければなりません。中国人ツアー客を乗せたバスが事故を起こしたとき、誰がどう対応し、保障するのか――。これまでぼくはキックバックを原資にしたあやうい中国人ツアーの問題を繰り返し指摘してきましたが、残念なことに、その構造を支えているのは中国側だけでなく、日本側の事情も大きいことを強く認識しなければならないでしょう。
「規制緩和」で安全基準まで緩和された?
それにしても、いったい日本のバス業界では何が起きているのでしょうか。
背景には規制緩和があります。改正道路運送法によって貸切バス事業が免許制から許可制に移行されたのは2000年。こうして新たに登場した業態が「高速ツアーバス」でした。
2000年当時、経済成長のカンフル剤として「規制緩和」が大いに叫ばれていました。貸切バス事業者の新規参入を促進し、(労働組合加入率の高い運転手を抱える)大手バス事業者と自由競争させていこうという動きが始まりました。以前は地域ごとに営業できるバスの台数を当局が決める「需給規制」に業界は縛られていた(大手は守られていた)面があったため、「規制緩和」は時流に乗った政策として歓迎されたといえます。
これを機に、それまで違法経営を行っていた「白バス」業者も貸切バス事業に参入します。「白バス」とは陸運局の許可を取らずに営業活動を行うことで、許可を取ったバスのプレートがグリーンであるのに対し、一般車と同じ白いプレートのままであることからそう呼ばれています。
2002年には、スキーバスなどごく一部にしか認められていなかったツアーバス事業を旅行会社が主催できるように解禁されたことで、従来の高速路線バスにはなかった格安バスや豪華車両などが登場しました。前述したように、現状では高速ツアーバスは道路運送法に規定されないため、経路やダイヤ等の届出は必要なく、料金も自由に設定できます。バブル崩壊以降、市場の縮小を余儀なくされていた貸切バス業界は息を吹き返すように大競争時代に突入。都市間高速バスや激安バスツアーなどの価格破壊によって利用者は恩恵を受けてきました。
その一方で、既存のバス事業者の収益低下によるローカルバスの相次ぐ廃止が起きたことも事実です。2007年大阪で起きたスキーバスの事故以降、運転手の労働環境の悪化、安全確保への不安など、貸切バス業界に対する多くの問題が指摘されるようになりました。
貸切バス業者は乗降場所として停留所やバスターミナルが使えないので、路上や民間駐車場を利用しなければならず、安全対策は各社の裁量に任されています。出先で点検整備を行う車庫や営業所がない場合も多いといいます。規制緩和後、事業者数は2倍近く増えましたが、その大半は保有車両台数10台以下の小規模事業者です。旅行会社から仕事を請け負う小規模事業者は弱い立場に立たされているのです。そのため、業界では事業者と車輌数の増大に伴って公示運賃をものともせぬダンピングの横行が起きていたのです。
インバウンドバス事業者はこうした流れの中で成長しました。この10年で東アジアを中心とする訪日観光客が増加したからです。実際のところ、規制緩和後のバス運賃の価格破壊がなければ、今日ほど多くのアジアからの訪日ツアー客の受け入れは不可能だったかもしれません。さもなければ、全国に「白バス」があふれる事態が起きていたことでしょう。
今回の事故を誘引したのは、時流に乗ったバス事業の「規制緩和」が行われたものの、安全基準まで緩和されてしまったことにあると思います。監督官庁である国土交通省は、規制緩和後に参入した陸援隊のような問題のある事業者に対する実効的な指導監督を怠ってきたといわれても仕方ありません。
報道によると、同省は貸切バス事業者への監査と運行基準の強化を始めていますが、今回の事故が起こる前から貸切バスの安全性の低下や運転手の労働条件の悪化については議論されており、4月上旬「バス事業のあり方検討」(http://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha03_hh_000116.html)としてペーパーになったばかりでした。
その契機となったのが、2010年9月に総務省が公表した「貸切バスの安全確保対策に関する行政評価・監視結果に基づく勧告」(http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/34390_1.html)です。大阪のスキーバス過労運転による死傷事故や高速ツアーバスの道路交通法違反問題などの事例をあげ、貸切バス規制緩和後の不健全な営業実態を追及しており、本来の監督官庁である国土交通省がなしえなかった意欲作といえます。こうした勧告をふまえて新たな規制に着手しようとしていた矢先に起きたのが、今回の事故だったのです。
バス運転手は現状をどう考えているか
ところで、こうした議論や新たな規制について運転手たちはどう考えているのでしょうか。
貸切バス運転手の労働条件の悪化は、業界の過当競争によることは確かですが、2008年に国土交通省から出された「一般貸切旅客自動車運送事業に係る乗務距離による交替運転者の配置」の指針により、1日の走行可能な距離が670㎞と定められたことが大きいといいます。その結果、運転手の拘束時間の延長は既成事実化していったからです。運転手の1日は、出庫前に行なう車両点検から客をホテルに送り届けたあとの車内清掃まで、早朝から深夜に及んでいます。
現場の思いはどうなのか。これまでぼくは新宿5丁目で何人かのインバウンドバスの運転手に話を聞いてきました。以下のくだりは、尖閣諸島沖漁船衝突事故で中国客が激減した一年前(2011年)の春節の頃に聞いたベテラン運転手の話です。
――労働時間が長すぎるとは思いませんか?――
「1日の労働時間もそうだけど、去年(2010年)は8月まで本当に休みもなかった。だから、尖閣で中国客が減って正直ホッとしていたんだよ。ただこのご時世だから、仕事があるだけありがたいと思わなきゃならないしね。俺はなんだかんだいって、この仕事が好きなんだと思うよ」
話を聞かせてくれたのは、貸切バスの運転手として30年以上のキャリアを持つ男性でした。仕事の中身は実にさまざまで、不法就労外国人の国外強制退去のため、入国管理局から空港に護送するバスを運転したこともあるそうです。
――運転中、何か困っていることはないですか?――
「そうねえ、悩みのタネは駐車場問題かな。これだけ外国人が観光に来ているのに、都心には駐車場がない。だから、俺たちはいつもウロウロしてないといけない。それと、よく地方でホテルの食事がすんだあと、『夜の街へ繰り出したいから運転手さん連れてってよ』ってガイドに言われることがあるんだ。でも、自分は行かないことにしている。仲間内にはチップをもらえば、どこにでもバスを走らせるという連中もいるようだけど、所定のコースでなければ保険が利かないからね。もし事故ったら終わりなんだよ、この仕事は」
彼は職業柄なのか、自由人のようなさばけたところがありましたが、場数をふんだベテランだけに、自己防衛の必要性を理解しているように感じました。
――ところで、以前に比べてインバウンドの仕事はどうですか?――
「昔はインバウンドといえば、台湾客のことだった。以前は台湾客もひどかったけどね。今はだいぶおとなしい。韓国ツアー客も中高年のおばちゃんはうるさいけど……、これは日本のおばちゃんも変わらないかな。まあ中国以外は車内販売がないからいいね。よく韓国やタイのガイドが、中国のガイドは大変だと言ってますよ。あんな仕事はガイドじゃないって……」
日本における本格的なアジアインバウンド市場は、1979年台湾の日本観光解禁とともに始まったといっていいでしょう(実際には70年代半ばくらいから香港客が来日しはじめていますが、規模でいえば台湾客の存在感が大きかった)。80年代から台湾のインバウンド客を扱ってきたある台湾系旅行業者は、
「当時インバウンドは嫌われ者だった。日本人客の少ないオフシーズンのホテルの穴埋めのような存在で、『白バス』が当たり前。今のように、全国各地で歓迎されるなんて考えられなかった」と語っています。
今回の事故を受けて、貸切バス業界の安全基準も含めて合法的に進めていこうという流れは強化されるでしょう。1日670㎞という基準も見直されるものと思われます。しかし、気がかりなのは、新しい規制の網が外国人観光客を乗せるインバウンドバス事業にどこまで適用されるか、です。いくら訪日外国人が増えているといっても、全体から見ればインバウンド市場は日本人市場に比べれば相対的にボリュームが少ないうえ、一般の日本人客にはかかわりのない世界であり、その実情はほとんど知られていないからです。
河野化山容疑者がぼくに話したこと
冒頭で言いましたが、昨年10月初旬の国慶節の頃、ぼくはインバウンドバスの台数を定点観測している新宿5丁目で偶然、河野化山容疑者と話を交わしたことがあります。わずか5、6分の立ち話でしたが、ぼくの取材ノートには以下のような内容が記されていました。
「河野化山さん。1968年中国黒龍江省牡丹江出身。父親が残留孤児で、1993年来日。最近、インバウンドバスの運転を始めたばかり。今回は福建省からのツアーでガイドは台湾人。3年前なら1本のツアーで1000万円の車内販売を売り上げるガイドがゴロゴロいたが、いまはもう難しいという。ツアー代が安すぎて、バスの運転だけでは儲からない。震災以降客が減ったので、上海の親戚の家に3カ月ほど帰っていた。今後は中国で洗車の会社を立ち上げようと考えている」
彼は通りに大型バスを路駐させたまま、ガードレールに腰かけ、タバコを吹かしていました。小柄で人のよさそうな人物に見えたので、声をかけると、どうも日本語があやしい。これまでさすがに大型バスの運転手が外国人だったことはなかったため、尋ねると残留孤児2世だと話してくれました。
たまたまぼくが彼の出身地である牡丹江を訪ねたことがあり、彼も親しみを感じたのか、「今度一緒にご飯でも」と携帯番号を教えてくれたのですが、いま思えば彼は日本の国籍に帰化したといっても、生き方は在日中国人となんら変わりません。ひとつの組織に属したり、本業にこだわったりすることなく、さまざまな副業を切り盛りして生計を立て、「発財」することに人生を賭けるという中国人としてはごく普通の生き方を送ってきたことがうかがえました。
1993年来日といいますから、25歳で一から日本での生活を始めたことになります。報道によると、貸切バスを運転できる大型二種免許を取得したのは2009年で、運転手歴は3年足らず。しかも、彼は個人名義でバスを数台所有し、陸援隊の仕事をアルバイトとして請け負っていたといいます。前述のベテラン運転手が語っていた「事故ったら終わり」という認識を彼がどこまで持っていたのか、大いに気になるところです。
報道の中でとても嫌な感じがしたのは、陸援隊の針生裕美秀社長が記者会見で「運転手は運行直前の3日間休養していたほか、日常の乗務も月に100時間程度で、過労運転をさせたことはない」とぬけぬけと語っていたことです。河野容疑者のようなアルバイト運転手は使い勝手がよいから「名義貸し」をして「日雇い」運転させていたことは明白です。副業に副業を重ねる彼の人生に休日などないのですから。針生社長は、規制緩和以前の1997年と99年の2回、台湾やシンガポールなどからの観光客を相手に無免許で観光バスを運行したとして道路運送法違反(白バス営業)の疑いで逮捕された人物だったのです。そして、今回もついに道路運送法違反(名義貸し)の疑いで再び逮捕されたことは報道のとおりです。
もっとも、河野容疑者にしても自らの違法性をどこまで自覚していたかはあやしいですし、彼が個人営業していたとされる中国からのインバウンド客のバス手配を発注していたのは誰なのか、という問題も残ります。これらは日本のアジアインバウンドが監督官庁や旅行業界からアンタッチャブル化されたがゆえに起きたことといえるでしょう。
適正なツアー価格と消費者保護
今回、国土交通省が掲げる規制強化のポイントのひとつは、これまで高速ツアーバスを主催する旅行業者が利用者に対して運送事業者としての安全確保の責任を法的に負っていない現状を改めることでした。今後はツアー催行側にも法的責任を負わせることで、業界全体として安全管理体制を高めていこうというものです。
ただし、これまでの経緯を見ていると、これによって旅行会社から小規模バス事業者が切り捨てられ、インバウンドバス市場に流れていくのでは、という懸念があります。インバウンドバスは現時点でも、法律の枠外またはスレスレの状況での低運賃が一般化しており、陸援隊や河野容疑者のようなあやうい事業者に手配せざるを得ない状況が起きています。このままいくと、日本のランドオペレーションを通さない(つまり、中国の旅行会社からダイレクトで日本のバス会社に手配が発注される。ゆえに日本の監督官庁は責任を追及できない)中国人ツアーが続出し、責任の所在があいまいなまま、結果的にアンタッチャブル化がますます進行するのではないかという危惧があるのです。
こうしたことが起こるのは、いうまでもなく、日本の消費市場に見合わない低価格のツアー代金で中国客が来日しているからです。釣り合わなくてもいいから訪日外国人を増やしたいと事情を知る関係者の多くが目をつぶってきたのです。その結果、インバウンドビジネスの末端にいるバス運転手がそのしわよせを受けているというわけです。
インバウンド市場に限らず、新興国市場との経済的取引の拡大で日本社会は絶え間ないデフレ圧力にさらされています。末端の事業者に無理が及ばないような適正なツアー価格に戻すことは急務ですが、それがたやすいことではないことはみんなわかっています。
それでも、この状況を放置したまま訪日客が増え続けたとしたら、貸切バス業界に限らず他の末端の事業者をますます追い詰めることになりはしないでしょうか。
もし中国人ツアーバスが事故を起こしていたら……を真面目に考えなければならないのはそのためです。
前回も書きましたが、まず中国客をはじめとする外国人観光客に対する消費者保護という観点から日本の国内市場をあらためてチェックすべきです。問題点の洗い出しがすんだら、保護対策を立案・強化し、海外、とりわけ中国の消費者に向けてアピールすることが必要でしょう。適正なツアー価格と消費者保護はワンセットで考えるべきなのです。そうすることで彼らの自尊心に訴えかけ、たやすく「安かろう悪かろう」に陥らないような冷静な判断を迫っていくのです。そして、現在の団体ツアーとはまったく異なる高品質のツアーが日本に存在することをわかりやすくアピールする。それが中国客の安全確保につながることを中国の監督官庁に対しても堂々と訴えていくくらいの気構えが必要ではないかとぼくは思います。
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