インバウンド特集レポート
世界遺産・石見銀山の一角にあり、湯治場と港町として栄えてきた島根県大田市・温泉津(ゆのつ)町。この町でも、観光庁の「歴史的資源を活用した観光まちづくり事業(歴まち事業)」を活用し、新たな地域づくりが進められている。町民参加型の意見交換会、空き家・廃業旅館の再生などを通じ、温泉津の魅力を磨きながら、持続可能な観光と地域生活の両立を目指すものだ。
中心を担うのは、温泉津に魅せられ移住し、地域に深く関わりながら活動を続ける近江雅子さんと西田優花さん。町民100人以上が参加した意見交換会「温泉津100年会議」を中心に、お二人に地域の現状と未来への構想を伺った。
▲「100年会議」温泉のマークを手で表現 写真/戸倉幹雄
「100人会議と100年会議」を通じてシビックプライド醸成
かつては湯治場・港町として多くの人が行き交った歴史を持つ温泉津。江戸・明治・大正・昭和それぞれの時代の建物が建ち並び、2004年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された全国で唯一の温泉街だ。一方で、現在は空き家率が53%に達し、後継者不足によって複数の老舗旅館や商店などが廃業の危機にある。観光と暮らしを支えてきた町の土台が、今まさに揺らぎ始めている。観光で栄えてきた温泉街が、いまその土台を失いつつある。
「このままでは、町の大切な風景や文化が静かに消えてしまうのではないか」――そんな危機感のもと、町の未来を見つめ直そうと歴まち事業を活用し、2025年12月に開催されたのが住民参加型の意見交流の場である「温泉津100年会議」だ。過去には、2023年に「温泉津100人会議」が初めて開かれ、「湧くで温泉津」という合言葉が生まれた。2025年の第二回目の「温泉津100年会議」とともに、住民のシビックプライドを醸成し、特に100年会議においては子どもや孫の世代を見据えた町の未来ビジョン案を策定することを目的として開催された。
▲湯治場であり港町である温泉街 写真/髙田率
移住者だからこそ見えた町の可能性
「温泉津100年会議」の設計・運営を担ったのは、温泉津に魅せられ移住し、今では地域の核を担う存在となった二人の女性だ。温泉津外から来た移住者でありながら、町の人々との対話を重ね、信頼関係を築いてきた。
近江雅子さんは、古民家を活用したゲストハウスや複合施設の立ち上げを通じて、滞在型観光と地域の暮らしをつなげてきた。2013年、夫とともに温泉津へ移住した近江さんは、空き家の多さや息子の保育園の同級生がわずか数人しかいない現状に衝撃を受けたことをきっかけに取り組みをスタート。1883年(明治16年)築の空き家を改修したゲストハウス「湯るり」を2017年に開業。その後も「HISOM」、カフェやランドリーなどを組み合わせた複合施設「WATOWA」へと活動の幅を広げてきた。
もう一方の西田優花さんは、観光庁や自治体のインバウンド・アウトバウンド事業を中心に、企画立案からクリエイティブディレクションまでを担ってきた人物だ。2022年に移住して以来、地域ブランディングに取り組み、飲食店「本と喫茶のゲンショウシャ」やシェア文庫「本と舍(ほんとあらか)」を立ち上げた。現在は石見神楽の地元舞子連中にも所属し、文化の担い手としての顔も持つ。地域ブランディングや文化企画を手がけるクリエイターとして、町の資源を未来へと翻訳する役割を果たしている。
▲本やアートが並び本格的なスパイスカレーが楽しめる「本と喫茶のゲンショウシャ」 写真/Hiroki Kondo
「移住してきた一人の温泉津の住民として、暮らしや文化をどう遺し、何を創出していくかという問いが活動の原点になっています」と語る西田さん。近江さんも、「重要伝統的建造物群保存地区に指定されているこの町の資産を、空き家として壊すしかないのはとても悲しい。解決策を探るため、西田さんたちと一緒に知恵を絞っています」と力を込める。両者は、今回の会議では「町民が主役」となることを何より大切にし、その設計に尽力した。
テーマは「100年後の温泉津町に何を遺し、何を築くか」
2025年12月、町の寺・西楽寺を会場に開かれた「温泉津100年会議」には、小学3年生から年配者まで、地域に関わる113人が参加した。意見交換のテーマは“100年後も湧き続ける温泉津であるために”。町民一人ひとりが未来を考える対話の場として、2日間にわたるセッションが行われた。
▲地元の小学生も参加した「100年会議」 写真/戸倉幹雄
会議の最初に町の風景を映し出したスライド動画を上映。企画・運営を担った西田さんは、その意図をこう語る。「日常的に見慣れている町の風景を、普段とは異なる視点や角度から映し出すことで、議論に入る前に、共通の感覚や感情を共有できるようにしました」
その後の対話型のセッションでは、6~7名ずつのグループに分かれて温泉津に遺したいこと、築きたいことのアイデアや思いを書き出しながら、地域の魅力を可視化・言語化していった。人の発言を否定しないというルールで参加者の心の安定を担保すること、各テーブルに地域のコアメンバーをファシリテーターとして配置することで活発な議論を促した。
「遺したいこと」というテーマでは、温泉津湾から望む夕焼けや市場の競り、わかめ干しといった自然と生活が連結した風景、そして知らない人や観光客にも挨拶する習慣などが挙がった。単なる風景や制度というよりも、「作法」や「空気感」、あるいは暮らしのリズムとしての「時間感覚」に近いものであり、観光についても拡大より「生活とのバランス」を重視する意見が目立った。
「築きたいこと」というテーマでは、大きく分けて二つの方向性が示された。一つは、コンビニや駐車場、医療、交通といった「生活インフラの不足を埋めること」。もう一つは、中学生が家と学校以外で勉強できる場所や、仕事・体験を生む場といった「関係と滞在を生むこと」である。参加者からは「施設(ハード)」を求める声が多く上がる一方で、後継者対策や共助といった「仕組み(ソフト)」に関する意見も出され、さらにはドローン基地や原発関連といった国策規模の境界領域にまで及ぶ、日々の生活に根ざした多様な展望が語られた。
西田さんはこう振り返る。「話し合っていくと、たとえばコンビニといっても24時間開いている必要はなく、ある程度必要なものが揃えばいいというのが町民の本当のニーズであるということが分かった。であれば、かつての商店を工夫して再オープンさせればいいのではないか、といった街づくりにつながる気付きがどんどん生まれました」
近江さんと西田さんは「私たちが考えなければいけないポイントで、新しい発見への示唆が随所にありました」と口をそろえる。
「温泉津100年会議」の開催に先立って、希望者向けに、実際の空き家を見て回る「空き家ツアー」も実施した。温泉津が抱える空き家・空き旅館問題の現状を、数字や情報として知るだけでなく、実際に見て、歩いて、感じてもらうことを目的に企画された。ツアーで訪れたのは、近江さんが運営する築145年の古民家型ゲストハウス「湯るり」、明治の建物を活用して開業した「温泉津こどもクリニック」などといった、新しく生まれ変わった場所もあれば、懐中電灯を片手に歩かなければならない廃屋となった大型旅館など多岐にわたった。こうしたコントラストを見せることで、町の資源が持つポテンシャルと、そこにある課題の両方を直感的に共有する機会となった。
「町の資源の現状を知ってもらった上で、空き家は生まれ変わることができる場であるということを意識し、100年会議の具体的なトークにつなげることができました」と西田さんは振り返る。
▲100年会議に先立って「空き家ツアー」を実施
老舗旅館の再興に向けコンセプト立案
住民を巻き込んだ意見交換会と並行して行われたのが、温泉津が持つ街並みの保全、観光と暮らしの資源としての活用に向けた建築物の再評価だ。温泉津では2010年に12軒あった旅館が2025年には4軒まで減少しているものの、ゲストハウス、宿機能を補完するランドリーやシェアキッチンなどが増え、回遊や長期滞在のニーズに対応する素地も整い始めている。
一方で、住民の暮らしと観光誘客のバランスを保ちつつ地域経済を回していくには、町の資源の再評価や新たな宿泊施設も不可欠だ。そこで、歴まち事業を活用して、空き物件の調査・環境整備に加え、ターゲット層や来訪者を対象としたモニターツアーにも取り組んでいる。
空き家物件の調査・環境整備では、大正初期に建てられた延べ面積900㎡の木造3階建ての旅館再興に向けたコンセプトづくりに着手している。木造建築の専門家や建築会社の協力を得ながら、重要伝統的建造物群保存地区の指定物件になり得るか、どのような利活用の可能性が検討できるのかの調査をはじめ、耐震補強工事の方向性や、温泉津が持つ資源をどう活かすかといった議論が進められている。
このほかにも、明治時代の空き家や土蔵、昭和時代の旧宿舎といった多様な物件を調査対象とし、町全体を視野に入れた再生の可能性が探られている。
▲空き家調査ではどのような活用ができるか議論が進められた
さらに、モニターツアーでは、町の資源をどう活かし、誰にどう届けていくか。そのヒントを得るために、温泉津町への来訪者や、今後注力していきたいモダンラグジュアリー層のインバウンドをターゲットにツアーを実施。主に、温泉津のまち歩きや空き家・空き旅館の見学ツアーを行い、その後に参加者の意見を収集・分析した。
ゲストハウスを運営する近江さんを中心に「空き家ツアーしてみませんか?」と声をかけてまわったところ、日本人のほか、オランダやスペインの旅行者も気軽に参加してくれたという。地域の社会課題を自分事として捉えてもらうため、ファムトリップのような一斉開催を避け、「1対1の対話」を軸とした少人数の随時開催型モニターツアーを実施することで、地域の伸びしろを共に読み解き、深い共感と洞察を得ることができた。
「最も多かった意見は、温泉津はメインストリートを歩くと住民と顔見知りになれるといった人の魅力です。空き家についても、みんなが集えるギャラリーにして、移住者も含めた地元の交流拠点にしてみては、といった声もいただきました」(西田さん)
▲外国人旅行者に協力していただいたモニターツアー
暮らしが残る温泉津をつくっていく
次年度以降に向けては、「温泉津100年会議」やモニターツアーで集まった意見、町の賑わいを取り戻す空き家・空き旅館の再生を具体化するために、DMC(ディスティネーション・マネジメント・カンパニー)の設立や、地元金融機関と連携した資金調達など、実現に向けた体制づくりが課題だ。
近江さんは「空き家などの改修は、本当はすごくハードルが高いんです。でも、子育て世代を含めたみんなが楽しめる場所だったり、気楽に住んでみようかと思えたりする街づくり。それを推進することで、“暮らしが残る温泉津を”つくるために努力していきたい」と意気込みを語る。
温泉津を訪れると、行き交う町民が声をかけてくれ、温泉に行くと誰かが背中を擦ってくれる日常が今も残る。それは「観光地」ではなく、「暮らしのある町」としての温泉津が持つ本質的な魅力だ。
そんな実感から生まれる近江さんの想いと、それを事業として形にしていく西田さんの実行力。この町の未来を100年先まで見据えて描こうとする、民間主導の街づくりが、今まさに動き出している。
Sponsored by 観光庁 歴史的資源を活用した観光まちづくり推進事業 運営事務局
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