インバウンドコラム
本コラムではここまで、観光インバウンドにおけるベジタリアン・ヴィーガン対応について知っておくべき基礎知識や、欧米と日本の現状の違いなどについてお話してきました。今回は日本国内でのケーススタディとして、先んじて食の多様性対応に取り組んできた温泉旅館が、地域を巻き込みながらヴィーガンメニュー開発を推進している実例をご紹介しましょう。
熊本県人吉市で1941年に創業した温泉旅館「清流山水花 あゆの里」は、日本三大急流・球磨川の河畔に位置し、和モダンの落ち着いた造りが印象的な客室74室の中規模宿です。人吉球磨地域の中でいち早くインバウンド受入を推進し、戦略の一手としてハラール対応に着手しました。この取り組みを地域へも拡大しようと試みていた矢先、2020年7月に熊本県南部豪雨が発生。「あゆの里」をはじめ人吉市中心部の旅館や飲食店のほとんどが被災し、観光業は壊滅的な状態となりました。しかしこの災害を学びに復興を見据えて掲げたのが、サステナビリティを視野に入れたヴィーガン食での多様性対応への取り組みです。
前回記事:災害を学びに、食の多様性への対応を通じてサステナブルな観光地域づくりを目指す。熊本県人吉球磨地域の取り組み
インバウンド市場でのムスリム開拓を目指し、ハラール食の提供を開始
2013年の「観光立国実現のためのアクション・プログラム」以降、国を挙げての外国人旅行客誘致が加速する中、外国人スタッフを積極的に雇用するなど意欲的にインバウンド対応に取り組んできた「あゆの里」。当時は近隣の鹿児島空港に直行便のある台湾や香港からの誘客が主でしたが、2019年に「エアアジアX」が九州初となる福岡ークアラルンプール線を就航することになり、新たにムスリム市場の開拓を考えたそうです。
人吉球磨地域は農業が盛んで山菜や野菜などの食材に恵まれている上、日本で一番のハラールミート供給源として知られる牛肉の食肉工場「ゼンカイミート」があることも大きな利点でした。あゆの里の若女将・有村友美氏は実際マレーシアに赴いて食文化を学び、現地の学生を旅館のインターンとして受入れてアドバイスをもらいながら対応を模索。2019年、温泉旅館として九州で唯一となるハラール認証を取得したあゆの里は、ハラール会席の提供を開始します。ハラールコースの提供にあたっては「ゼンカイミート」で屠畜されたハラール和牛を使用し、ムスリムのお客様にもとても喜ばれたそうです。
「取り組みが順調に進んだのは、調理場をはじめスタッフの理解があってこのこと。弊社ではグローバルな組織を目指すことを方針として掲げており、新しいことへの挑戦を現場も前向きに捉えてくれたと思います」と有村氏。
▲「あゆの里」のインバウンド施策を先導する若女将の有村友美氏(左から4人目)とスタッフのみなさん(提供:あゆの里)
水害を機に、サステナビリティを意識した食事改革を実施
2020年7月、コロナ禍での熊本県南部豪雨に見舞われ甚大な被害を受けた「あゆの里」は、休館を余儀なくされます。この苦難の中、復興に向けて特に注力したのが、ブランディングやマーケティングについての見直しでした。水害を経験したことで環境に配慮した取り組みへの意識が高まり、その一環として食事面では持続可能性や多様性を意識した大幅リニューアルを敢行。約1年の休館を経て2021年8月に新スタイルでの営業を再開しました。
▲高質客室の比率アップを狙いながら、ハード面でも全館にわたる改装を行ったあゆの里(提供:あゆの里)
まずは提供する食材の地産地消を促進。熊本県の内陸部に位置する人吉球磨地域で海の幸を提供するには、フードマイレージ(食料の輸送距離)による環境負荷がかかることを考慮し、海の魚を使うことを止めました。川魚や山の幸を中心に人吉球磨の食の魅力を伝えることをコンセプトに、「ここでしか味わえない」料理を提供することに注力したのです。
考えてみれば、旅行客が求めているのはその土地の味わいです。海のない地域でわざわざ遠くから取り寄せた魚介のお刺身を食べる必要はありません。特に外国人旅行者はほかの地域にも立ち寄る可能性が高いので、新鮮な海の幸が味わえる地域で楽しんでもらったらいいのではないかと思います。
夕食は、以前は量が多すぎて食べきれないお客様もいたことから、品数を13品から9品に減らしました。その分、地の食材をふんだんに取り入れた新しい創作会席料理を作り上げ、説明を添えて一品一品丁寧に提供することを心がけた結果、お客様の反応もとてもよくなったそうです。
また朝食も、約40種の料理を並べていたバイキングスタイルから個別の御膳スタイルに変更しました。
「こうした取り組みによりフードロスを大きく削減できました。以前は大きなバケツで毎日2~3個は出ていた生ごみが、現在は小さいバケツで1個くらいに。朝食を個別提供にすると人手がかかるという意見もありましたが、バイキングでは空になった皿に料理を追加する手間がかかり、それらを考えればたいして変わりません。フードロスが減ったことで食材コストの削減にも繋がっています」と、有村氏は改革の手応えを実感しています。
▲9種類の小鉢が木箱に詰められ、見た目も美しい和朝食(提供:あゆの里)
インバウンド再開を見据えたヴィーガンメニューの開発
観光インバウンドにおいて、あらゆる食のアレルギー、禁忌、嗜好に対応できることは市場の拡大に繋がります。近年高まっているベジタリアン・ヴィーガン食へのニーズを捉えたあゆの里では、食の多様性対応の強化を考え、ハラールに加えて新たにヴィーガンメニューの開発も行いました。完成したヴィーガンコースは、彩りや盛り付けも含めてとてもクオリティの高い仕上がりです。
▲手間暇をかけて丁寧に調理されたヴィーガン料理(提供:あゆの里)
メニューの中には、地域食材である「たもぎ茸」を使った炊き込みご飯など、ヴィーガンに対応しながら、一般のお客様へも提供している料理もあります。内陸部である人吉球磨地域の郷土料理を掘り下げていくと、「元々ヴィーガンレシピだった」というものも数多く存在するようです。ほかの地域においても、昔ながらの食事を知る方々から知見をもらいつつ今一度地域の食文化を見直してみることが、ヴィーガン対応のヒントになるかもしれません。
▲熊本県球磨郡あさぎり町の特産品「たもぎ茸」を使った炊き込みご飯(提供:あゆの里)
現在「あゆの里」のヴィーガンコースは事前リクエストに応じて提供していますが、肉や魚を使わないからといって料金は変えていません。地産地消の食材を用いるため原価は大きく下がりますが、「キノコなどから出汁を取るのも手間がかかる作業ですし、もちろん料理長の努力や腕も求められます」と有村氏の言うように、山菜や野菜だけで感動させるにはそれなりの技術が必要です。原価で売価を決めるという考え方は捨て、ベジタリアンやヴィーガンでもニーズに応えた対価をもらうのは当然のことだと思います。
▲季節によって提供するメニューも異なる(提供:あゆの里)
持続可能性や多様性を意識した取り組みを実践するあゆの里では、公式ホームページでもこうした運営方針を日本語と英語で掲載しています。宿としての想いをしっかりと掲げることは、サステナビリティに配慮する旅行者から支持される大きな要素となるでしょう。同時に、特に欧米諸国で顕著な伸び率をみせている、環境問題、動物愛護などの主義的理由からベジタリアン・ヴィーガンに転向した方々へのアピールポイントにもなるはずです。
ヴィーガン食を地域に拡大し、南九州でナンバーワンを獲得
あゆの里の先駆的な食の多様性対応は素晴らしいものですが、観光地としての魅力を付加したければ単独ではなく地域一帯での取り組みが必要です。そのことを踏まえ、有村氏が国外誘客担当マネージャーを務める一般社団法人「人吉球磨観光地域づくり協議会」では2020年、地域全体でのハラール対応施策を掲げました。
弊社「フードダイバーシティ」もアドバイザーとして関わることになりましたが、プロジェクト始動の矢先に水害が起こり、取り組みの要となるハラールミートの供給源「ゼンカイミート」が被災により休業してしまいます。あゆの里でのハラール会席の提供は現在も継続していますが、地域としてはハラール施策をいったん保留とし、SDGsを取り入れた地域デザインを掲げながらヴィーガン対応に重点を定めて舵を取ることとなりました。
具体的には、地域の事業者の理解を得るためにセミナーを複数回開催し、飲食店や宿泊施設に対して個別にメニュー開発をサポートしてきました。対応の準備が整ったら、ベジタリアンレストランの口コミサイト「Happy Cow」へ登録するというステップを辿り、2020年のスタート時は人吉球磨地域で「あゆの里」1件のみだったHappy Cowへの登録件数は2022年現在で14件に増えています。
これは南九州で最も多い件数で、対応店も和食、イタリアン、天ぷら、焼酎蔵などさまざまなジャンルが揃っています。「地元の食事が食べたい」というヴィーガン観光客のニーズに十分応えられるもので、地域の魅力付加にも貢献していると思います。
▲Happy Cow のサイトでHitoyoshiと検索すると14件がヒットする
有村氏曰く、「最初のうちはヴィーガン対応についてイメージがわかない事業者さんも多かったと思いますが、これからの地域の未来を考えた取り組みであることを根気強く説明し、徐々に参加してくださる方が増えていきました。今後は飲食業だけでなく、味噌・醤油や焼酎など地元の特産品を扱う食品メーカーさんや行政にも広く働きかけていきたいと考えています」。
ベジタリアン・ヴィーガンに対応すれば、あらゆるニーズへの応用が可能に
地域のハラール対応の取り組みも、「ゼンカイミート」が2023年に営業再開予定であることから、今後再始動となるでしょう。今回は意図せずしてヴィーガン対応に先に取り組むこととなりましたが、有村氏は「結果的にはいい流れになった」と言います。
というのも、最初にベジタリアン・ヴィーガンメニューに対応したことで、それ以外の食の多様性対応が展開しやすくなるからです。たとえば、ベジタリアン食にハラール肉や魚介類を足し、アルコール成分の調味料を引くだけでハラール対応の食事を用意することができます。
▲提供:フードダイバーシティ株式会社
また、オリエンタルベジタリアンと呼ばれる台湾人の「素食」への対応も、現在人吉球磨地域が注目するフードダイバーシティのひとつ。2024年に熊本県菊陽町に台湾の大手半導体メーカー「TSMC」に進出することが決定し、当初は600人規模、最終的には2000人規模の駐在員が台湾から来ると言われています。台湾人の14%が「素食」であることを考えると、間違いなく大きなマーケットとなるでしょう。
「素食」対応も、ベジタリアン・ヴィーガン食をベースに「五葷(ごくん))の野菜を引けばいいだけなので、これまでの取り組みがアドバンテージとなり、率先して誘客を展開していくことができるでしょう。
このコラム内でも繰り返しお伝えしてきましたが、食の多様性対応を決して難しく考える必要はありません。できることからひとつずつ、まずは行動に移すことが何より大切です。
特に宿、飲食店、食品メーカー、地域やDMOなど観光インバウンドで食に携わる事業者のみなさまは、これからさらに加速するフードダイバーシティの誘客効果を見据えて、着手しやすいベジタリアン・ヴィーガン対応から実践に移してみることをおすすめします。
プロフィール:
フードダイバーシティ株式会社 代表取締役 守護 彰浩
楽天株式会社を経て、日本国内のハラール情報を6カ国語で発信するポータルサイトHALAL MEDIA JAPAN 運営。国内最大級のハラールトレードショー・HALAL EXPO JAPAN を4年連続で主催。2018年よりベジタリアン事業にも注力、中国語でのベジタリアン情報サイト「日本素食餐廳攻略」や、英語圏のベジタリアンへの情報発信に向け、世界最大のベジタリアンアプリ「HappyCow」と日本企業唯一の業務提携を交わす。フードダイバーシティをコンセプトにハラール、ベジタリアン、ヴィーガン、コーシャなど、あらゆる食の禁忌に対応する講演やコンサルティングを提供中。 2020年、観光戦略実行推進会議にて、菅前総理大臣に食分野における政策提言の実績あり。流通経済大学の非常勤講師。
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