インバウンドコラム
インバウンド業界の専門家を招き、話題のトピックスについて話を聞くトークライブシリーズ、「観光・インバウンド業界のトレンド」。今回は、オーバーツーリズムの象徴、と言われることのある富士登山の最新事情に迫った。
話を伺ったのは、富士山吉田口旅館組合事務局長で、八合目山小屋「太子館」若旦那の井上義景氏。そして、富士山ガイド歴12年で合同会社Japan Exploration Tours JIN-仁の代表を務める藤本賢司氏のお二方。富士山八合目の山小屋の若旦那と、外国人と日々接する登山ガイドという異なる視点から、今の富士登山とインバウンドの受け入れ状況について理解が深められるはずだ。
2024年の富士登山シーズンでは、山梨県側に位置する主要な登山道で初めて入山規制が実施された。その効果はどうだったのか、また訪日旅行者を含む富士登山にどのような影響を与えたのかなど、トークライブで伺った内容の一部をお届けする。
▲国内外の大勢の登山客で賑わう富士登山道(提供:太子館 井上義景氏)
山梨県が富士山の入山規制に踏み切ったきっかけ
古くから信仰登山としての歴史を持つ富士山。江戸時代には、富士山信仰が盛んとなり、現在の富士山八合目付近には、すでに多くの山小屋が建てられていたと考えられている。
富士山の山小屋の歴史について井上氏は、「もともと山小屋は、神仏を祀る信仰の場に建物が建ち、その後、お茶屋や宿泊施設としての機能を持つようになったと考えられています」と語る。現在でも山小屋ではそれぞれ本尊を祀っており、信仰登山の講社や山伏の方々が参拝する風習が続いている。
(提供:太子館 井上義景氏)
2024年3月、山梨県で条例案が可決され、同年夏から山梨側の5合目登山口で徴収する通行料が1人2000円となることが決まった。
富士山への登山者数は2000年代に入ってから増加の一途を辿り、世界遺産登録の機運が高まった2008年頃から、登録となった2013年頃にピークを迎える。その後、2014年の御嶽山噴火の影響で減少、2020年にはコロナ禍による閉山で完全に途絶えた。現在は回復基調にあるものの、登山者数自体は過去のピークに及ばない。それでも2024年、入山規制が行われた理由を井上氏はこう説明する。
「富士山のオーバーツーリズム問題は決して新しいものではなく、江戸時代の書物ですでに指摘されています。ここ数年で特に問題になっていたのは、インバウンド旅行者が多くを占める弾丸登山者の増加です。特に、頂上で日の出を見ようとする、夜間の弾丸登山者の数を減らす必要がありました」
▲2005年から2024年の富士登山者数の推移。環境省のデータを基に作成(提供:太子館 井上義景氏)
コロナ禍の影響は大きかった。従来、山小屋では所狭しと寝袋を並べて寝るスタイルが一般的だったが、コロナ禍で個室タイプへの転換が進められた。これにより、山小屋全体の受け入れ可能人数が減少、一方でアフターコロナでは山小屋で宿泊をしない夜間の弾丸登山者が増加。登山道脇で野宿をしたり、ゴミを不法投棄したり、トイレの個室に籠って仮眠を取ったりと、マナー違反が目立つようになった。
▲登山道で野宿する弾丸登山客、安全性が問題に(提供:太子館 井上義景氏)
「マナー問題に加えて、安全面での懸念が高まりました。朝に出発する日帰り登山の時間帯なら、仮に大雨や雷の影響があっても山小屋に避難できます。ただ、弾丸登山者が訪れる夜間には、山小屋が満室であるケースが多く、悪天候でも避難できるスペースが極めて限られてしまいます。そんななか、2023年には、山小屋の宿泊予約開始と同時にウェブサイトが予約殺到でパンクする事態に。入山規制はこうして喫緊の課題となりました」と井上氏は話す。
登山規制による夜間の弾丸登山者への影響は?
こうした状況を受け、2024年から富士山吉田口では入山規制が開始された。時間規制と人数制限を主軸としながら、山小屋の予約者は適用外という方針で運用されている。また、通行料として2000円が徴収されることに。この規制実施に向けて、山梨県は県道だった登山道の一部を指定解除し、県有施設として各種の整備を行った。この効果は大きかった、と井上氏は語る。
「規制導入の効果は顕著に表れています。最も大きな変化は弾丸登山者数の激減で、2023年の1万4469人から708人へと大幅に減少しました。私たちの組合からも『夜間が平穏になった』『悪天候時の避難対応が可能になった』『宿泊者からのクレームが減った』といった肯定的な声が聞かれます」
▲規制前と規制後の太子館前の様子、夜間の弾丸登山者の数が大きく減った。左は2023/8/12 23:45頃、右は2024/8/11 21:50頃撮影(提供:太子館 井上義景氏)
インバウンド観光客の動向にも注目すべき変化が見られる。吉田口における外国人登山者の割合は、2021年に21.3%、2022年に15.8%だったが、2023年には38.8%まで増加。2024年にはさらに42.4%と4割を超えた。山小屋の個室化によって定員は減少したが、プライベート空間を重視する傾向の強いインバウンド観光客からは好評だ。
▲コロナ禍前とは異なり、個室化された山小屋内部(提供:太子館 井上義景氏)
外国人登山者の国籍構成はどうだろうか。2015年に吉田口で実施された下山者調査によると、欧米39.9%、東アジア39%、東南アジア11.1%、その他10%という分布になっている。また、海外在住者と国内在住の外国人を合わせた国籍別では中国、アメリカ、フランス、ドイツ、香港の順に多いという結果が出ている。
▲全体に占める外国人登山者の割合は4割を超えた(出典:Japan Exploration Tours JIN 公式ページ)
インバウンド登山者向けのきめ細やかなサービス
富士山におけるインバウンド観光の増加に伴い、現場では様々な対応や工夫が重ねられている。井上氏に太子館の実情について話を聞いた。「インバウンドの割合は、コロナ前の2019年で約20%でしたが、現在は約30%程度まで増えています。ベジタリアンやハラル対応は、2016年からレトルト食品を活用。4~5%がこのオプションを選択しています」
決済面では現金を持たずに登山する外国人が増加し、携帯端末でのカード決済に対応せざるを得なくなったという。また、効率化のためネット予約の導入を進めると、旅行会社による大量予約と大量キャンセルという新たな問題が発生した。これには2024年から5%のキャンセル料徴収を導入し、対策を講じている。外国人救助費の未払いも深刻だったが、QRコードによるカード決済の導入や、通行料の一部を救助費に充当する仕組みの導入によって解決が図られている。
2018年から外国人向けの富士登山ガイドツアーを開始したJINの藤本氏は現在、日帰り、1泊2日、2泊3日の3種類のツアーを用意。きめ細かなサポート体制を確立している。「当初は5合目を集合場所にしていましたが、外国人にはハードルが高いようでした。遅刻や高山病の懸念もあり、現在はホテルに私たちが迎えに行くスタイルに変更しています」
同社が提供する1泊2日のツアーは登山の約2カ月前の準備サポートから始まる。藤本氏は「コロナ禍でのオンラインツアーの知見を活かし、Zoomでの説明会を実施しています。ここで顔合わせできることが参加者の安心にも繋がっています」と話す。当日集合した後は、ゲストと共に登山道具のレンタルショップへ行き、装備の最終確認をする。その後、麓の北口本宮冨士浅間神社で安全祈願。時間が許せば、5合目にある小御嶽神社でも、昇殿参拝をし、神主さんのご祈祷を受けて富士山の神秘性や特別さを感じてもらうように工夫をしていると
▲ガイドによる事前ZooM説明会(出典:Japan Exploration Tours JIN 公式ページ)
下山後は、「単なる登山以上の体験を提供したい」という思いから、温泉施設やうどん屋利用などの文化体験もオプションで用意。また、山小屋の予約代行や、耳栓およびウェットティッシュなどのアメニティ提供、現金の立て替えなど、細やかなサービスも好評だ。
持続可能な富士登山の実現に向けた課題とは?
富士山の持続可能な観光のあり方について、現場で活動する藤本氏と井上氏は、それぞれの立場から課題と展望を示す。インバウンドツアー会社JINの藤本氏は、富士山体験の質の向上を重視するという。「参加者が富士登山の前後でいかに自己変容をしたか、
近年指摘されているガイド不足の問題については、「ガイド能力に加えて、事務力が必要だと痛感しています」と指摘。山小屋の手配や保険、装備など、外国人登山者との外国語での事前対話を通じた、準備プロセスの重要性を強調する。アドベンチャートラベルとしての側面では、五感で感じてもらうことを重視。「言葉での説明は難しいのでまず感じてもらいます。相手の理解度に合わせて伝えていく難しさは常にあります」という。体が動く限りは富士登山を続け、外国人登山者のサポートを行っていく考えだ。
一方、山小屋経営者の井上氏が課題として挙げるのは、世界文化遺産としての価値の伝達だ。「行政も含めた課題として、世界文化遺産としての富士山を感じられる要素が少ないのが現状です。景色がいい、日本一の山に登った、で終わってしまう」と指摘する。かねてから重要な課題としてユネスコから課されていたが、今なお十分な対応ができていないという。
この課題に対し、太子館では、山小屋の由来や祀られている神仏の紹介など、独自の取り組みを始めている。最初に登ったとされる聖徳太子の伝説や、信仰登山としての富士山の歴史など、来訪者に理解してもらいたい情報を発信している。2024年から導入された入山料については、歴史を踏まえてこんな見解を示してくれた。「持つ者も持たざる者も自らの足で登るという平等性が富士山信仰のポイントでした。付加価値のあるオプションはあっていいと思いますが、基本的には国内外の多くの人に開かれた富士山であるべきだと考えています」
▲ガイドも含めて、世界遺産の価値を登山者に伝えるための取り組みが欠かせない(提供:太子館 井上義景氏)
プロフィール:
富士山吉田口旅館組合 事務局長 富士山 八合目山小屋「太子館」若旦那 井上 義景
中学校から大学院まで10数年、山岳部に所属し、趣味が昂じて冬山での雪崩の研究に身を投じたことも。学生時代にガイドの仕事で働いた八合目太子館で、富士山の魅力の虜となる。その後、縁あって太子館の跡取りとなる。現在、山小屋業務とともに、富士山吉田口山小屋の組合の事務局長として富士山をより良く後世に残していくために活動中。
合同会社 Japan Exploration Tours JIN-仁 代表 藤本 賢司
東京出身、大阪在住。中高山岳部、大学探検部。京都大学観光MBA卒。学生時代に始めた富士山ガイドが原体験で、 旅行業界で働き始め今に至る。(株)H.I.S.、(株)サミットエアーサービス、(株)西遊旅行勤務を経て2018年に独立。 以後、インバウンドツアー事業に没頭する。富士山ガイド12年、海外秘境・登山添乗通算400日以上、訪問国約50カ国。得意フィールドは大阪天満・京都伏見稲荷・富士山。キリマンジャロ、ネパールヒマラヤ、ストックカンリ、玉山など海外の登山・トレッキング経験も多数。富士登山はライフワークとなりつつある。
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