インバウンド特集レポート
インバウンド市場の急速な成長と共に、訪日富裕層の動きにも変化が表れている。滞在期間の長期化、体験の個別化、そして地方への関心のシフト。しかしながら、こうした高付加価値旅行者の流れを十分に捉えた商品やサービスを作り込んでいる地域は、限られているのが現状だ。
では、なぜ多くの地域が“選ばれない”のか。そして、どのような地域が“選ばれている”のか。
本記事では、欧州を中心とする富裕層向けのテーラーメイド旅行を手がけるDMC(デスティネーション・マネジメント・カンパニー)・リージェンシー・グループ株式会社にて代表取締役社長を務める沼能功氏への取材をもとに、その実態と地域が取り組むべき視点を探る。
▲現代美術家杉本博司氏の作品を展示する江之浦測候所(提供:株式会社リージェンシー・グループ沼能功氏)
空手道場に通う1週間、富裕層が求める日本での体験
欧州の富裕層を中心に顧客一人ひとりの要望に応じた旅行手配を手掛けるリージェンシー・グループ株式会社。主な顧客は欧州層。国はドイツ、スイス、ベルギー、オランダなど多岐に渡り、主に50代から70代の夫婦あるいは家族旅行が多いという。
近年は滞在期間の長期化が進み、最近の例ではスイスから7名のファミリーが約1カ月間滞在するなど、腰を落ち着けた滞在スタイルが増えている。

プランはどれもオリジナルで、日本庭園や坐禅などのメディテーション、藍染のデニム、日本刀、陶器、現代アートなど顧客の多種多様な興味関心に合わせてトラベルデザイナーたちが提案する。中には「妻から夫への誕生日プレゼント」として夫が1週間、東京の空手道場通いに没頭したという印象的なケースもあった。手配する側には、1件1件の要望を実現するコンサルタント力が問われている。
どのプランにも通底していることは、「日本の中でもそこでしか体験できないこと」を期待する顧客の強い要望だと、沼能氏は指摘する。東京や京都、直島などのスタンダードな観光地でなくとも、その地域固有のコンテンツで満足度の高い体験を提供できる事例が各地で積み重ねられているという。
豪華さより素朴さ、日常の中にある「特別感」が価値になる
ここで言う「地域固有のコンテンツ」とは、非日常的なイベントや大がかりな歓待のみを指すのではない。高付加価値旅行者の誘致を目指す各地域では「100万円以上を消費してもらうための商品づくり」へと思考が陥りがちだが、そもそも富裕層たちの求める「そこでしか体験できないこと」とは何なのか。自分たちの地域が何を持っているかを再確認する必要性を、沼能氏は強調する。
以前、越前和紙の工房を案内したときのことだ。長年そこに勤める話上手のおばあちゃんが富裕層を相手に普段通り日本語で作業工程をたっぷりと解説したところ、ご本人の素朴な人柄とあいまって場がおおいに盛り上がったという。
「素朴でいいんです。普段通りのライフスタイルの中にあるその土地らしさ、特別感を彼らは知りたがっています」
▲地元の方との交流も価値ある体験となる(提供:株式会社リージェンシー・グループ沼能功氏)
焼き物など地域名を掲げる伝統工芸の打ち出し方にも、まだまだ再考の余地がある。従来のように長年にわたる伝統や格式、創作物をアピールするだけでなく、そこにはあるはずの「常に革新に挑む作り手」という魅力を生かすことだ。旅行者側からも「作家に会いたい」というリクエストは多く、当日は工房に何時間も滞在したという話も聞こえてくる。
地域固有の素材や長年受け継がれてきた技術が、どのような創意工夫で現代に伝えられているのか。作り手の物語こそが、旅行者の心を揺さぶるカギとなる。
体験の意味を問い直す、発想の転換が選ばれる鍵に
とはいえ商品作りに焦るあまり、他地域の成功事例のスキームをそのまま流用することは“正解”とは言い難い。元来そこにないものを即席で作ろうとすると結果的に無理や混乱が生じ、旅行者ばかりか地域住民からも理解が得られにくくなってしまう。そこで生きてくるのが「視点を変える発想力」だと沼能氏は語る。
例えば、日本では祈祷や供養のために霊場をめぐるというイメージが強い四国八十八ケ所巡礼。このお遍路さんを「歩きながら日本人の宗教観・文化思想に触れることができる特別なトレイル体験」ととらえ直すことで成功したケースもある。
ヨーロッパには「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」などの世界3大巡礼路もあり、「歩く」というアクティビティと「巡礼」という内省的な行為が自然に結びついている。これと同じ文脈で四国巡礼を見つめ直したわけで、こうした発想の転換力が、今後ますます求められていく。

▲四国八十八ケ所巡礼のトレイル体験は発想の転換で成功した
もう一つ、発想の転換として沼能氏は、1日に複数の観光地や体験をめぐる「詰め込みすぎの旅行プラン」にも警鐘を鳴らす。「ヨーロッパからのお客様は、夢中になれることであれば数時間でも半日でもそこにいる価値があると考えます」
訪問先の多さやスケジュール通りの移動ではなく、中身の満足度を重視する。それを実現するための事前のヒアリングにこそ、最も時間をかける意味があるという。
五つ星ホテルでなくても響く、価値を引き出す引き算の発想
では、納得のプランが出来上がったとして、五つ星ホテルや高級レストランなどのラグジュアリーなハードがなければ、高付加価値旅行者の誘致は難しいのだろうか。必ずしもそうではないと沼能氏はいう。
たとえばホテルの朝食にしても、富裕層だからといって朝からフルコース並みの食事を求めているわけではない。一定のサービス水準が維持されていれば、サラダとハム、ヨーグルトなどのシンプルなモーニングでも十分事足りる。それを「五つ星ホテルのような洋食は出せないから」と欧米人が慣れていない焼き魚の和定食を出すと、逆に“正解”から遠ざかってしまうと沼能氏は明かす。

▲この場所でしか味わえない景色の中で朝食
ポイントは高付加価値旅行者のことを過剰に特別視しないこと。求められていない足し算ではなく、喜んでもらうためにあえて引き算でのぞむ勇気も重要だ。まずは外から来た旅行者がどうしたら喜んでくれるか、誰に何が刺さるかを自分たちの手持ちコンテンツを見極め組み合わせて考える。
さらにここで実践したいことは、商品を市場に出す前にレビューしてもらい、より精度を高めていくことだ。「ここに最も時間をかけた方がいい」と沼能氏。海外の旅行会社向けのFAMトリップにしても「誰でもいいから来てください」では勿体無い。将来の顧客を呼んできてくれそうな、筋の良い関係者に体験してもらい、地域の人々とも速やかにイメージを共有できれば、良好な受け入れ体制ができていく。
富裕層の声に耳を傾け、”地域の価値”を見つめ直すときに
今、“選ばれる地域”として沼能氏が今注目しているエリアは、沖縄や九州だという。ビーチリゾートで知られる沖縄だが、近年は島やエリアごとの歴史や慣習、大陸との交易に基づく食文化など「その土地ならではのコンテンツ」の訴求に力を入れている。日本神話の舞台である九州の高千穂にも「その神聖性を軸にした新たなコンテンツ作りの可能性を秘めている」と期待を寄せている。
▲今回お話を伺ったリージェンシー・グループ株式会社代表取締役社長の沼能功氏
「日本のそこでしか体験できないことに触れたい」という高付加価値旅行者の声は、地域にとって”自分たちの価値とは何か”を改めて問い直す機会となる。高付加価値旅行の“価値”についていま、改めて立ち止まって考えるときが来ているようだ。
取材/文:佐藤優子
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