インバウンド特集レポート
観光インバウンド市場は、今や日本経済を牽引する重要な柱の一つとなっている。一方で、その急速な市場拡大の裏では、観光事業者や自治体が抱える深刻な課題が浮き彫りになっているのも事実だ。多様化するニーズへの対応、現場での人手不足、持続可能な観光地経営。これらは、もはや従来の観光業界のプレイヤーだけでは解決が難しくなっている。
しかし、そのことが、新たなビジネスチャンスを生み出している。
不動産、IT、金融、物流、医療など、これまで観光とは距離のあった業種が、観光業界に参入し、自社の強みを活かしてインバウンド市場に新たな価値を創造している。 観光客の利便性を高める「BtoC」サービスから、事業者や地域の課題解決を支援する「BtoB」ソリューションまで、異業種が提供するサービスは多岐にわたる。これらの多様なビジネスは、観光を起点とした異業種間の連携を加速させ、持続可能な地域経済の循環を生み出している。
ここでは、この「課題を起点に生まれる新ビジネス」を7つのパターンに分類し、次のインバウンドを切り拓く異業種の動きを具体的に紹介する。従来の観光業界のプレイヤーだけではない彼らの挑戦が、単なるビジネスチャンスにとどまらず、日本の観光のあり方そのものを変えつつある。

量から質へ、インバウンド市場の変化が生み出す新たなビジネスチャンス
インバウンド市場は今、単なる数の拡大から、「質」への大きな転換期を迎えている。
日本政府観光局(JNTO)の統計によると、2024年の訪日外国人旅行者数は3687万人と過去最高を更新し、2025年上半期だけでも2151万人を突破。消費額も上半期で4.8兆円を超え、年間では4000万人、10兆円に迫る見通しだ。
注目すべきは、訪日客1人当たりの旅行消費額が、コロナ前の2019年の15.9万円を大幅に上回り、23.9万円に達している点だ。この背景には、単なる円安だけでなく、旅行者のニーズの多様化がある。一般的な観光ツアーや買い物ではなく、その土地ならではの文化や人との交流に深く触れる、よりパーソナルで特別な体験を求める「高付加価値層」の存在感も増している。また、地方への訪問率も向上し、大都市圏以外の地域の魅力を再発見する動きが活発化している。
このような市場の変化を捉え、政府も戦略を強化している。2023年に策定された「第4次観光立国推進基本計画」で掲げた「2025年までに旅行消費額5兆円」という目標は、2024年時点で既に8兆円を突破。この勢いを受け、「第5次観光立国推進基本計画」の策定を急いでおり、量的・質的な成長の両立を目指している。
具体的には、観光庁と経済産業省が「観光DX推進プロジェクト」を共同で推進し、デジタル技術を活用した観光地経営の高度化を目指している。また、観光庁と農林水産省は「農観連携の推進協定」を結び、食文化を観光の主要コンテンツとして磨き上げる取り組みを進めている。これらの施策は、インバウンドを単なる観光振興ではなく、地方創生や日本経済全体の構造転換に繋がる戦略として捉えていることを示しており、結果的に異業種参入の追い風となっているのだ。
観光ビジネスに企業が参入する7つの理由、外需獲得と組織変革がカギ
インバウンド市場の拡大を受けて、観光業とは縁がなかった企業が次々と新規参入している。その背景には、単なる市場規模の魅力だけでなく、自社が抱える経営課題や、社会課題の解決に向けた動機が存在している。
1. 少子高齢化による内需縮小と海外需要の取り込み
国内市場が縮小する中、海外需要を新たな成長の柱に据える企業が増えている。特に小売や飲食チェーンなど内需依存度の高い業種では、訪日客を新規顧客として取り込むことで売上を補填している。日本総合研究所の試算では、訪日外国人旅行者の消費額が2023年の約5.3兆円から倍増すれば、将来の国内外食市場の縮小分(約1.1兆円)を相殺できるとされている。インバウンドは、国内にいながら海外消費を取り込む有効な手段なのだ。
2. 外国人材の活用と社内グローバル対応力の強化
多文化・多言語環境で活躍できる外国人材の活用も重要な理由だ。厚生労働省の統計によると、2024年10月末時点の外国人労働者数は約230万人と過去最多を記録した。インバウンド事業は、彼らの語学力や異文化理解力を活かす実践の場となり、組織全体のグローバル対応力向上にも繋がる。
3. DX・業務効率化の促進
インバウンド対応を通じて、社内にDXの視点を取り込む企業も多い。オンライン予約やモバイル決済、多言語カスタマーサポートといった取り組みは、テクノロジーと接客スキルの両立を求められる。これは、社内の人材育成や業務改革にも波及効果が大きい。
4. ブランド価値を体験として伝える国際発信
ブランドの国際的認知度向上も重要な動機だ。製造業や食品メーカーは、製品を単なる「モノ」として売るのではなく、「体験」を通じてブランド価値を世界に伝えている。工場見学や酒蔵ツアーはその代表例で、製品の背景にある物語を伝え、熱狂的なファンを創出している。

5. ESG経営と地域課題解決
企業のESG(環境・社会・ガバナンス)経営とインバウンドを結びつける動きが広がっている。地域資源を活かした観光への参画は、遊休不動産の再生や文化継承といった社会課題の解決に貢献する。観光客の消費が、こうした地域社会の課題解決に直結する仕組みも生まれており、インバウンドは企業が地域と共に歩む姿勢を示す場となっている。
6. 遊休資産の活用による収益化
企業が保有する遊休資産の再活用もインバウンド参入の理由だ。特に不動産や製造業、小売業では、工場跡地、倉庫、空きフロアなどを観光施設や宿泊施設、イベントスペースに転用するケースが見られる。初期投資を抑えつつ収益化を図ることができ、地方の空き家問題解決にも繋がる。
7. 観光事業者や自治体を対象とした支援ビジネスの拡大
いま注目されているのは、訪日客向けサービス(BtoC)だけではなく、観光事業者や自治体を支援するBtoB市場の成長だ。人材マッチング、多言語研修、観光データ分析、補助金申請サポートなど、観光産業の課題を解決するサービスが次々に登場している。これらは異業種の知見を活かすことで成り立っており、今後さらに広がると見込まれる。
業種別に読み解く、インバウンド参入の7つの戦略モデル
インバウンドへの参入は、業種ごとに異なる強みを活かすことで、さまざまなビジネスチャンスを生み出している。ここでは、7つの業種がどのような形でインバウンドに貢献しているか、具体的な事例を交えて見ていく。
訪日客向け(BtoC)のサービス展開
1. 製造業
伝統産業や工場が「産業観光」として、自社の強みを体験価値に変える動きが活発だ。製造工程の公開や職人との交流は、訪日客の理解を深める場となっている。
新潟県燕三条地域では、複数の工場が期間を定めて一斉に作業場を公開する「工場の祭典(オープンファクトリー)」を展開し、多くの観光客を呼び込んでいる。これは、地域全体で観光客を受け入れ、ものづくりの文化を伝える好例となっている。
また、富山県の鋳物メーカーの能作のように、かつては下請けとして事業を行っていた企業が、自社ブランドを立ち上げ、観光客を受け入れる事例もある。能作ではクラフト体験を組み込んだカップル向けの旅行プラン「想い旅」を展開し、旅行者が製品への愛着を深める場を提供している。
2. 飲食業・食品メーカー
訪日客の最大の関心分野の一つである「食」では、観光地限定商品やEC通販の動きが広がっている。
食品メーカーは、訪日客の多様な嗜好に応えるための商品開発を進めている。特に、お菓子メーカーでは抹茶味などインバウンドを強く意識した商品や、土産物に適したインバウンド向けパッケージを開発し、訴求力を高めている。
また、宗教や信条に基づく食事制限への対応も加速している。例えば、ハウス食品のように、早い段階からハラール認証を取得し、ムスリムの需要に応える動きがある。飲食店でも、ハラール対応メニューやベジタリアン/ヴィーガン対応を展開し、幅広い訪日客が安心して楽しめる環境整備が進んでいる。
さらに、酒蔵は、製造業としての側面と「食」文化体験の側面を併せ持つ重要な観光資源だ。白鶴酒造は、資料館を開放し、日本酒の歴史や製造工程を伝えることで、国内外のファン層を拡大する取り組みを行っている。こうした取り組みにより、単なる商品販売に留まらず、日本の食文化の奥深さを伝える体験機会を提供しているのだ。
3. 不動産業
空き家や古民家を再生した宿泊施設の運営に加え、海外の富裕層投資家向けに高級マンションの物件見学ツアーを実施するなど、新たな収益源を創出している。
不動産デベロッパーの森トラストは、高級ホテルブランド「マリオット」などと提携し、都心やリゾート地のホテル開発を積極的に進めている。
さらに、定額制の住居サービス「HafH(ハフ)」の存在は、旅のスタイルを多様化させる一因となっている。
4. 一次産業
日本の豊かな自然と食文化を活かし、農業、漁業、林業といった一次産業が観光コンテンツとして注目されている。農泊や収穫体験、漁師体験などがその代表例だ。
農家民宿での宿泊を軸とした「農泊」は、日本の生活や文化に深く触れたいという訪日客に人気だ。漁業体験では、漁師と協力して漁をしたり、獲れた魚をその場で調理して楽しんだりするプログラムが増加している。

訪日客向け(BtoC)及び企業向け(BtoB)のサービス展開
5. IT・スタートアップ
テクノロジーの力で、旅行者の利便性向上や観光地経営の効率化を支援する。体験予約プラットフォームや観光客向けの手荷物預かりサービスなど、旅の課題を解決するサービスを次々と生み出している。
AIを活用した多言語翻訳ツール「ポケトーク」は、接客時の言語の壁をなくすツールとして多くの事業者が導入。Airporterのような手荷物配送サービスは、旅行者のホテルと空港・駅間などの手荷物を当日中に配送し、「手ぶら観光」をサポートする。
また、観光事業者向けのBtoBサービスでは、VACANがリアルタイム混雑情報を提供し、Unerryは人流データを活用して観光地経営を支援する。そのほか、宿泊施設の予約・在庫管理システムや、多言語対応チャットサポートの提供など、サービスも拡大している。
6. 医療・保険
訪日客の急病や怪我への対応だけでなく、日本の高度な医療技術を目的とした新たな需要を創出している。旅行中のリスクに備える保険商品や、緊急時に多言語で対応できる窓口サービスを提供し、訪日客の安心・安全を支える役割を担う。
最近では、ホテルの客室内でオンライン診療や往診サービスを提供する例が見られる。また、医療機関が外国人患者向けの専門外来や、健康診断、人間ドックなどのメディカルツーリズムプランを提供。保険会社は、訪日外国人向けに、コロナ禍でも利用可能な高額医療費をカバーする保険商品を販売している。
医療通訳サービスを手掛ける企業が、病院や薬局向けにオンライン通訳サービスを提供したり、旅行会社や宿泊施設向けに緊急時対応マニュアルや医療連携ネットワークを構築・提供したりする動きもある。
7. 金融
金融機関は、直接的な旅行者対応ではなく、観光産業を後方から支えるBtoBの形で参入している。金融機関が地域資源を活用した事業に融資したり、自治体が観光地域づくり法人(DMO)と連携して広域でのインバウンド誘致に取り組むなど、公的な役割を果たしている。
たとえば、地方銀行が、観光関連事業者向けの特別融資プランや、地域資源を活用した事業へのファンド組成、投融資を行っている。さらに、観光事業者や自治体に対して、インバウンド対応のためのコンサルティングサービスを提供する動きも加速している。
また、福井銀行や山梨銀行のように、金融会社が自ら旅行商品の造成・販売などのBtoCのインバウンド事業を手掛けるケースもある。
観光がグローバルビジネスの入り口に、異業種参入が広げる可能性
異業種による参入は、単なる観光客向けのサービス提供にとどまらない。観光事業者や自治体を支援するBtoB市場が拡大することで、企業や地域は「グローバル化」を進めている。
インバウンド対応は外需の取り込みであると同時に、自社の経営改革や地域課題解決の契機となる。異業種の技術やノウハウは、観光の持続可能性を支える原動力となり、次のインバウンドを切り拓く力とにもなっているのだ。こうした動きは、単発的な事業成功に終わるのではなく、日本の観光の未来を形作る大きな潮流となるだろう。
次回からは、実際にインバウンドに参入し、成功を収めている異業種の具体的な事例を、観光業界が抱える課題解決型のスタートアップビジネス、医療、金融などを紹介していく。
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