インバウンドコラム
急速に回復傾向にあるインバウンド需要を受け、訪日目的の上位に挙がる日本食の分野では食の多様性対応のニーズが高まっています。なかでも日本のトップレベルの味を堪能したいという海外の富裕層をターゲットにすることは、新たな機会と顧客層を開拓するための鍵であり、飲食ビジネスにおいて大きなチャンスとなるでしょう。
老舗の和食店がひしめく京都でハラール・ヴィーガンメニューにいち早く着手し、成果を上げている料亭があります。京都四条の鴨川沿いに店を構える「本家たん熊本店」は、1928年に創業し約100年近い歴史を持つ名店。2009年「ミシュランガイド京都・大阪 2010」に初掲載され、以来毎年連続で星を獲得しています。
「本家たん熊本店」が提供するのは、素材の持ち味を引き出すことを第一に考え、引き算の美学を追求した京風会席料理。「食の禁忌がある海外のお客様にも本物の京料理を提供したい」と言う若主人・栗栖純一氏に、取り組みの経緯やハラール・ヴィーガン会席へのこだわり、実践へのヒントなどについて伺いました。
ムスリムへの恩返しの想いで京会席の概念そのままに作り上げたハラール会席
初代のひ孫にあたる栗栖純一氏は、茶懐石料理店での修行を経て2009年に「本家たん熊」に入店。先代たちが築き上げてきた伝統や概念を守りながら、新たな試みを取り入れることに努めてきたと言います。
修行時代に学んだ炭焼きの技術を取り入れたり、素材へのこだわりをさらに追及するほか、「一流の飲食店を名乗るには、食だけでなく『飲』、お酒についてもプロであるべき」と、猛勉強を重ねてソムリエや日本酒の上位資格を次々と取得。和食の最高峰を目指して「本家たん熊本店」の名を守り高めてきました。
▲(左)谷崎潤一郎など名だたる文豪からも愛されてきた「本家たん熊」(右)本店四代目として店の看板を背負う栗栖純一氏
その根底には「喜んでもらえることを追求する」というホスピタリティがあり、2014年にスタートしたハラール会席もその表れです。
当時、「観光立国実現に向けたアクション・プログラム」(2013年)を受けて、日本のインバウンド客数は増加の一途を辿っており、京都にも多くの外国人が訪れていました。そんな中、「ある日新聞で、京都を訪れたムスリムの人が食事に困っていると知りました。せっかく和食を楽しみに来てくれたのに、食べられるものが見つからないと。それなら私がやらなければ、と思ったんです」と純一氏。
学生時代に世界70カ国以上をバックパッカーで巡り、宗教や主義による食の禁忌の習慣に触れる機会を持ったという純一氏。旅の途中でイスラム圏の人々から受けた多くの親切も印象に残っており、ムスリムの方に恩返しがしたいと強く思ったそうです。
この頃はまだ、日本は食の多様性において黎明期でした。格式ある和食店がムスリム対応に踏み切ることは、大きな決断だったと言えるでしょう。しかし純一氏によると「幸いにも両親共に海外旅行が好きで、国際文化への理解が深く柔軟な考えを持っていました。女将である母は今も英会話を習っていて、外国人客には英語で対応しているくらいです」と、先代からの同意もスムーズに得られたそうです。
思い立った翌日には、早速ハラール会席に着手。「もともと和食は魚と野菜が中心なので、ハラール対応のハードルは低いと思います。取り組みにあたっては、豚由来のものを完全に排除し、食材、調味料、器具もすべてハラール専用のものを使用することにしました」と純一氏。同年中に京都ハラール評議会からハラール認証を取得。日本ハラール協会から「ハラール調理師」の認定を受けました。
▲店内に掲示されているムスリムフレンドリー認証
提供するのは京会席のフルコース。概念やクオリティは守りつつ熟練の技術で通常の会席と変わらぬ味を生み出し、価格も通常コースと変わらない設定にしています。
▲ハラール会席(全11品)は、現在2万2000円のコースと和牛(ハラール)の炭火焼きがついた4万4000円の2種類を用意
料亭としてのこだわりで、いちから作り変えたヴィーガン会席
「世界中の人に本物の京料理を味わってほしい」という想いは、さらに拡大。修行時代に身に着けた精進料理の知識や技法を生かすことができるのではと考え、2016年にはヴィーガン会席の開発に取り組みました。
しかし、調味料の変更などで対応できるハラールと比べ、卵や乳製品を含む動物性食品を一切使用できないヴィーガン会席にはかなりの技術と努力を要したと言います。「1品だけであればさほど難しくはないのですが、会席料理では全11品のバランスを考えて金額に見合う価値を提供しなければいけません。しかしそれこそが料亭の付加価値なので、一切妥協はできないと思いました」
その結果、ヴィーガン会席で提供する料理はすべて仕込みから作り変えることにしたそうです。通常の会席と共通のメニューはないため、調理の手間も時間もかかる上、食材が季節ごとに変わるのでほぼ毎月新たなメニューを生み出しているということになります。
私は普段、フードダイバーシティの取り組みの第一歩として一般メニューとの「共通点」を見ましょうとお伝えしています。それはもちろん正しいことですが、純一氏が目指したのはあえてその逆、最もハードルの高い領域でした。ベジタリアンやヴィーガンの方が「本当に食べたい」もの、その期待値に全力で応えることが「本家たん熊」としての誇りだと言います。
▲「ベジタリアン・ヴィーガン会席」(全11品、22000円)の英語でのお品書き
接客においても配慮を取り入れ、外国人のお客様へはその日のお品書きを英語で作成し、最初にお見せするようにしているとのこと。そうすることで英語に不慣れなスタッフでも対応でき、「この食材は抜いてほしい」などのリクエストにも応えることができるそうです。
外国人客のうち4割が、フードダイバーシティ会席をオーダー
2016年時点で、すでにハラールおよびベジタリアン・ヴィーガン対応が整った「本家たん熊本店」。SNSなどで発信を試みていたそうですが、当初は大きな反響が得られたわけではなかったようです。
「それでも将来的にニーズが高まっていくことは確信していたので、地道に継続していました。すると2019年、即位礼正殿の儀への参列のためにアラブの国の皇太子殿下が来日した際に、京都に足を運ばれ、当店でハラール会席を召し上がっていただくことになったんです。大変満足いただけたことで、大きな喜びと自信につながりました」
▲お店で食事をされた外国人のお客様との1枚
その後のコロナ禍で、海外からの外国人客は一時途絶えることにはなりましたが、収束後の2022年10月以降に状況が一変し、予約や問い合わせが激増したそうです。コロナ前は日本人と外国人のお客様の割合が8:2だったのが、現在は3:7に逆転。以前と比べて日本人客が減少したのではなく、純粋に外国人客が増えたということです。外国人のお客様のうち6割は欧米系、2割が香港や台湾などのアジア系、残りの1割が中東諸国の方で、ハラールやヴィーガン会席を注文される方は全体の4割にも上っています。
ここまで圧倒的な成果を得ることができた理由の一つに、予約のうち8割を占めるというオンラインシステムのアクセシビリティが挙げられます。「本家たん熊本店」のような完全予約制の店では特に重要となるポイントで、同店の公式サイトは、日本語、英語、繁体字、アラビア語の4言語に対応しており、トップページからメニュー閲覧、予約受付完了まで各言語ワンストップで完結できるように整備されています。
「ハラール会席もヴィーガン会席もリクエスト対応ではなく、予約の段階で通常メニューと同様に選択できるようにしました。お客様と直接繋がるオンラインだからこそ、予約までのステップを極力シンプルにしてお客様の手間を省く。これはインバウンドにおいてすごく大切なことだと思います」と純一氏。
▲「本家たん熊本店」公式ホームページ。予約の際にはクレジットカードの登録をお願いしている
直接予約のほか、高級ホテルからの送客が多いことも特長と言えるでしょう。ゲストのリクエストや期待に応えてくれる店として、コンシェルジュからの信頼を集めていることが読み取れます。
柔軟な発想を取り入れることが伝統を守ることに繋がっていく
和食だけでなく飲食業全体の先達として、食の多様性対応の極みを目指す「本家たん熊本店」。現在は、ユダヤ教徒の方に向けてのコーシャ会席も開発中だそうです。
「歴史を持つ店であればあるほど、新しい取り組みに対して不安を抱えてしまうかもしれませんが、とにかく試してみることが大切だと思います。ヴィーガンやハラール対応は店の伝統を壊すことにはなりません。工夫のひとつであり、お客様に喜んでいただくホスピタリティの表れだと思います」と純一氏。
時代の流れを読み取り、常に魅力を付加しながら進化し続けることが、伝統を途絶えさせないことに繋がるのかもしれません。最初から完璧を目指さずとも、できることから始めてみることが重要ではないでしょうか。
(写真提供:本家たん熊本店)
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