インバウンドコラム

第15回 「日中冷戦時代」のインバウンド さあどうする?

2012.11.17

印刷用ページを表示する



10月に入り、メディアは尖閣諸島をめぐる中国政府の扇動の影響で訪日中国人数が急激に落ち込んだことを伝えています。野蛮なデモ映像を見せられた日本人の中国渡航を敬遠する動きも大きいようです。新宿の中国インバウンドバス駐車スポットも、9月中旬以降、バスの姿はほとんど見られなくなりました(http://inbound.exblog.jp/19009513/)。

中国の旅行関係者の何人かにヒアリングしたところ、
「9月中旬以降、訪日旅行はキャセルに次ぐキャンセル。中国の旅行業界内に日本ボイコットを煽る連中がいて、良識のある業者も口をつぐまないではいられない雰囲気がある」
「この先少なくとも半年は訪日の動きはないだろう。震災のときよりも影響は大きいのではないか」
「日本からの旅行客も減り、インとアウトでバランスをとっていたビジネスが崩壊し、困惑している」
と答えています。

その結果、中国側の訪日旅行担当者の多くは仕事を失っています。大手の社員であれば、他のエリアの担当に異動するなどして一時をしのげますが、中小の旅行会社の中には倒産の動きも見られるようです。日中のインバウンド関連業界で最も打撃を受けたのは、(後述する一部の日本企業を除くと)中国の旅行業者だったのです。

今回は、日中双方の業界で起きている事態を冷静に分析しながら、「日中冷戦時代」ともいうべき転機を迎えた中国インバウンドの行方について考えたいと思います。ひと言でいえば、数を追わない訪日中国旅行市場の発想の転換です。それは決して悪い話ではありません。このコラムの中で繰り返し書いてきたように、中国の階層分断化された消費市場の実情に見合った本来あるべき姿に戻ることが日中双方のためにもなると考えるからです。

 

悪ノリする中国をどう考えるか

中国の旅行関係者と話をしながら感じるのは、お上の顔色をうかがいながらでなければ、まっとうな商いもできない中国社会の実像です。それがたちの悪い病的なかたちで表に出てきた症例として、尖閣問題にかこつけて悪ノリする中国側の動きが最近、続出していることを、皆さんもご存知かもしれません。

やまとごころの最新レポート「第15弾 どうなる? 今後の中国インバウンド~中国メディアから見る尖閣諸島問題を巡る訪日旅行~」(https://yamatogokoro.jp/download.html)によると、中国の大手旅行会社のCtrip(携程旅游)がこともあろうか、2020年10月1日に出発する「釣魚島(=尖閣諸島)プレミアム4日間ツアー」の予約を開始しています(http://vacations.ctrip.com/grouptravel/p84006s25.html?
AllianceID=1127&sid=1274&ouid=
)。Ctripといえば、ここでは名前は出しませんが、一部の自治体や旅行会社がチャーター便の誘致などで数年前から協力関係を結んできた中国のネット旅行の最大手です。はたしてこうした信義を欠いた旅行会社と今後も提携していくべきなのか、考え直す必要がありそうです。

2010年7月上海・茨城線で日本に初乗り入れした春秋航空。当初はチャーター便でスタートしたが、12年6月からは定期便として運航。最初はチャーター便として実績をつくってから定期便に移行させるのが、地方空港のLCC誘致モデル。

春秋航空の「1円(中国側は0円)」キャンペーン航空券が中国のネット右翼の嫌がらせで販売中止に追い込まれたことも知られています。ここではキャンペーンに協力した佐賀県と香川県がやり玉に上がっていました。LCC誘致は地方におけるインバウンド振興の手法として注目されていただけに、その取り組みを邪魔立てする中国側の悪意には怒りを覚えます。

実は、国内第4の春秋航空の定期チャーター便の就航地として鳥取県でも9月末から運航が予定されていたのですが、あえなくドタキャンとなりました。佐賀県(九州)、香川県(四国)、鳥取県(中国)と西日本に3つの拠点ができることで、これまで実現できなかった多様なツアールートが開拓できることから、春秋航空側はもちろん地元も今後の展望を期待していただけに、やりきれません。

中国の大半の旅行会社がゴールデンルート偏重の凡庸なツアーしか造成できないなか、春秋航空は母体が旅行会社だけに、ビジネスマインドにあふれる民営企業です。国営企業に比べ資金力の少ない同社が、これまでいかに苦労して地道に路線を展開してきたか。中国のレジャー産業の歴史を知るひとりとしては、今回の件をとても悔しく思います。しかし残念ながら、いまの中国の国情では、こうした日中双方が手を組む意欲的な取り組みを見つけ次第、つぶしにかかる輩が現れることでしょう。

11月下旬に日本で開催されるインバウンド商談会「トラベルマート2012」についても、例の「訪日旅行5万人キャンセル」で名を上げた中国康輝旅行社が参加ボイコットを業界に呼びかけているため、中国関係者の来日は難しそうだという話も聞いています。

春秋航空は中国発の民間航空会社。中国発LCCで、予約はすべてオンライン

こうしたことから現在いえることは、中国の訪日旅行市場に対する積極的な売り込みはしばらくの間、逆効果にすらなりかねない状況だということを理解すべきでしょう。春秋航空の社長は経営者としてすばらしい方なのですが、結局、彼を追い詰めることになってしまいました。これでもし春秋航空が減便、また就航の継続を断念する事態になったらと思うと心配になります。もうこれ以上、お味方を無駄死にさせるわけにはいきません。いまは焦るべきときではない、と心すべきでしょう。

 

日本では誰が打撃を受けたのか

一方、日本側で打撃を受けたのは誰か。それは航空業界です。もちろん、一部の中国客の取り込みに熱心な宿泊業者や小売業界にとっても、今年の国慶節は捕らぬタヌキの皮算用で終わったことは事実でしょうが、打撃の大きさは航空業界には及びません。

東日本大震災から1年たち、日本の海外旅行市場は想像以上のスピードで回復し、今年の日本人の海外渡航者数は過去最高となることが予想されていました。中韓との相次ぐ政治的対立でそれもあやしくなってきましたが、今年8月の日本の大手航空会社2社の国際線に占める中国線の予約需要をみると、JALで全体の約22%、ANAで約32%です。

実のところ、訪日中国客は中国系航空会社の利用が多いため、ここでも打撃を受けているのは大量の減便を余儀なくされた中国企業だったといえなくもありません。しかし、中国客の占める宿泊業者のシェアや小売業者の売上比率に比べても、日本のインバウンド関連業界で航空業界ほど中国市場が高いシェアを占める業界はないのです。

では、日本の旅行会社に打撃はあったのかといえば、そうでもないようです。乗客の7割を占める中国客に大量キャンセルが出たため、長崎・上海航路の運航を休止したHIS系のHTBクルーズなど、一部の中国市場に積極的に取り組んでいた企業を除くと、もともと大手ほど、激安ツアーが大半を占める中国の訪日ツアーの取り扱いに消極的だったからです。もっとも、日本人の中国・韓国渡航が減少していることの痛手は大きいわけですが。日本旅行業協会(JATA)の統計によると、2011 年度の日本の旅行業界の総取扱額に占める外国人旅行(インバウンド市場)の比率は0.7%にすぎず、国内旅行や海外旅行などを合わせた約6 兆円に対して500 億円足らずであるのが実態なのです。

中国の訪日ツアーをランドオペレーターとして手配していたのは、大半のケースが在日中国人などの小規模旅行会社や貿易会社の副業ベースだったため、打撃を受けたのは日本国内でも実は中国系の人たちだったというオチがつくのです。いま彼らは東日本大震災のときのようにガイドや運転手の仕事を失い、中国に帰国している人も多いと思われます。

 

国交省が掲げた「中国集中キャンペーン」の脂汗

こうした未成熟な中国インバウンドの実態を見ていると、日本の行政主導のインバウンド振興がやみくもな数字ばかりを掲げる渡航者数至上主義に陥ってしまった理由もわかります。渡航者数を増やすことは航空業界の利益を守ることにつながり、それに偏重するのは航空行政を監督する国土交通省の意向に沿っているからでしょう。

日本が島国である以上、航空行政がインバウンドに直結するのは当然です。北東アジアのハブを仁川にとられ、むやみに地方空港を乱立して赤字化させるなど、やることなすこと失策続きだった国土交通省の航空行政が、現状の打開を図る手だてとして中国との路線網を拡大することに賭けようとするのもまた無理もない話だったでしょう。

2009年5月のトラベルマートの外国人記者会見の場で、世界中から来た旅行メディアの記者たちを前に、国土交通省の担当者が「ビジット・ジャパン・キャンペーンの取組みについて」と題して次のようなことを話したことを、いまでも思い出します。

訪日外国人旅行者数の推移や国・地域別旅行者数の割合といった統計を示し、旅行者数の多い12の重点市場を挙げ、受け入れ体制などの取組みを説明するところまではよかったのですが、その担当者は「個人観光ビザ創設を契機とした中国集中プロモーション」について何食わぬ顔で語り出しました。

確かにそれは日本の観光戦略の重要な柱だったのでしょうが、なにも世界中の記者がいる場で話すべきことだったのか。当然のように、プレゼンのあと、インド人記者から「インドに対するプロモーションはどうなっているのか?」といった質問がありました。そりゃそうですよね。エコヒイキされるのが大好きな中国人の心性を承知で、わざわざみんなの前で特別扱いを見せようとした。そんな意図があるのならともかく、ぼくも違和感を覚えました。せめて中国人記者だけをあとで集めて別席でやってもよかったのではと。

なぜこの話をしたかというと、日本の行政官のインバウンド振興に取り組む姿勢や脇の甘さ、要領の悪さを指摘したいというのも確かにありますが、それ以上に自分自身も含めて、いかにひとりよがりな発想に当時の日本人が囚われていたのかと思えてきて、脂汗をかくような気分になるのです。それから3年後、中国政府は日本の「中国集中キャンペーン」を堂々と逆手にとって標的としたのですから。

メディアの報道からも、さすがに観光庁も「中国集中キャンペーン」を捨て、インドネシアやタイを含めた東南アジアの多面的なプロモーションに転換したことがわかりますが、これを機に今後は中国の訪日旅行市場に数を期待する発想は捨てるべきだと思います。目指すは「数から質へ」です。でもそんなことが可能なのでしょうか。

 

中国経済の減速は旅行市場の成熟をもたらすか

数の発想を捨てるべき理由は3つあります。

①「日中冷戦時代」はまだ長引くため
②いま目立つと標的になるため
③中国経済の減速が海外旅行市場に与える影響のため

まず①については、中国側関係者へのヒアリングの感触からもそれが伝わってきます。尖閣諸島沖に出没する中国の監視船が今後、海域から姿を消すことはまずありえないでしょうから、いつ何時、中国政府が国民を扇動するか。それは彼ら次第です。

②については、前述したように、悪ノリする輩が日中双方の努力を作為的にぶち壊そうとする情勢が続いているためです。日本にとってインバウンド促進は国際親善と異文化交流、それに経済効果を結びつけることが目的であるのに対し、中国では民間はそうでも、政府にとっては政治の道具として使われます。ある国に大量の観光客を送り込み、消費させることも、外交的な駆け引きとセットであることを彼らは隠そうともしません。

こんな話をしなければならないのは残念ですが、中国相手で何かやる場合、誰が味方で誰が敵かを見極めておかねばなりません。日本人は普段そんなことを考えていませんが、中国では普通のことです。たとえば、日本人は「中国富裕層」ということばをプロモーションやPRの場面で無意識によく使いますが、「富裕層」を持ち上げる姿が民衆の反感を買っているという面があります。つまり、「富裕層」をターゲットにするということ自体が、中国の民衆に敵とみなされることがありうるのです。階層分断化した社会がもつ妬みの視線の存在を忘れて物事を進めるのは危険です。

③こそが実はいちばんの懸念要素です。おそらく来年になると、中国に関する話題のメインテーマとなりそうなのが、経済の減速と不動産市場の調整局面が引き起こす社会変動ではないかと思われます。世間にはすぐ「中国不動産バブルの崩壊」がどうこう言いたがる人がいますが、そういう短絡的な話ではありません。中国で海外旅行に行けるのは、前回の第14回のコラムで書いた投資用不動産を複数所有しているB層以上に限られます。不動産市場の調整がB層の消費行動にどんな影響を与えるかを注視していく必要があります。

実は日本の海外旅行市場は、バブル経済崩壊以降の1990年代に本格的な拡大期を迎えました。イケイケドンドンのバブルの熱狂が消えたことで、日本人の消費スタイルはかえって洗練されていきました。とりわけ海外旅行のような余暇市場は、個人化が進み、成熟した面があるように思います。成長が止まると人間は成熟に向かうものなのです。

ですから、ぼくなどは中国でも今後日本と同じようなことが起こればいいのにと思ったりもするのですが、社会構造の異なる中国ではどうか。中国の若い世代の中にその兆候を読み取ることもできますし、日本で見かける年配の一部の中国人旅行者にも成熟を求める意識はあるようですが、現段階では中国のツーリズム産業の成熟度が圧倒的に遅れていることが足かせになっているように思います。

いずれにせよ、今後は中国の消費者がどのように成熟していくかに注目しましょう。それは未熟な中国富裕層の成金趣味を相手にするのとはわけが違います。中国インバウンドの「数から質へ」の転換のために、彼らの成熟度の理解は不可欠です。今後はぼくもそのための材料をもっと探していこうと思います。

先日、ぼくの信頼しているひとりの中国ビジネスアドバイザーがこんなことを話してくれました。

「これまでは猫も杓子も中国市場を目指していたところがありましたが、今回の件によってその傾向がなくなったことはいいことではないでしょうか。そのぶん、思いのある、準備をしっかりしている企業の進出は実は減っていない印象です。そういう意味では、分母が減ったもののしっかりとした方針を持って中国市場、またそれに連動したアジア進出する企業の比率は増えていると思います」。

今回「日中冷戦時代」のインバウンドなどと刺激的なタイトルを付けたのも、これだけのことがあっても、あえてやろうと覚悟を決めた人でなければ、成果は得られるものではないということを言いたかったからなのです。

最新記事