インバウンドコラム
世界の観光産業はいま、AIによって大きく姿を変えようとしている。情報そのものの価値が相対的に低下するなか、これからの観光で問われるのは、AIには生み出せない体験をどう形にし、届けていくかだ。ここでは、2026年6月に開催されたトラベルテックをテーマとした国際会議「WiT Japan 2026」での議論を手がかりに、AI時代だからこそ日本が発揮できる観光の強みと、その可能性を考える。

AI時代、旅行業界の競争軸は「情報」から「体験」へ
2012年に私が立ち上げたトラベルテックに関する国際会議「WiT Japan」が今年も東京で開催された。2日間にわたり68人の業界リーダーが議論を交わした。その中心にあったテーマはやはりAIだった。
▲2026年6月に東京で開催された「WiT Japan」(筆者提供)
しかし、私が最も印象に残ったのはAIそのものではない。
「AIが当たり前になった世界で、人間にしか提供できない価値とは何か?」という問いだった。
私はトラベルjp、Trip101、WiT Japanの共同創業者として、世界中の旅行業界の経営者や投資家、起業家と議論を重ねてきた。その中で確信しているのは、AIは旅行産業を単に効率化する技術ではないということだ。本質的には、観光産業、ひいては観光立国同士の競争ルールそのものを変える技術なのである。
これまで旅行業界では、「情報」が競争力だった。
「どこへ行くべきか」「どのホテルがいいのか」「どのレストランが人気なのか」
旅行会社やOTAは、より多くの情報を集め、より速く届けることを競ってきた。しかし生成AIは、その前提を大きく変えつつある。Trip.comによれば、AIを活用したTrip.comでの予約件数は前年比400%増加し、リアルタイムAIツールの利用も300%増加したという。
▲Trip.comによるとAIを活用した予約件数は大きく増加している(筆者提供)
旅行者は検索するのではなく、AIに相談するのが当たり前になりつつある。
AIは翻訳、検索、比較、予約まで担う。情報そのものは急速にコモディティ化し、情報格差は縮小していっている。だからこそAI時代の競争は、「誰が一番多くの情報を持つか」ではなく、「誰が最も意味のある体験を設計できるか」へと移っていく。
WiT Japan 2026で繰り返し語られたキーワードがある。
「Trust – 信頼できるか」「Authenticity -本物か」「Context – その人や状況に合っているか」
AIはこうした条件が整えば正しい答えを導き出すことはできる。しかし一方で、旅に意味を与えることはまだできない。旅の価値は、情報ではなく記憶だからである。
AIには再現できない、人や地域との偶然の出会い
今年のWiT Japanで、JTB代表取締役社長の山北栄二郎氏は、「おもてなしはマニュアルではなく精神であり、相手を理解しようとする姿勢である」と語っていた。
私はこの言葉こそ、AI時代の観光を象徴していると思う。
AIは翻訳し、検索し、予約し、決済までしてくれるようになる。つまり「面倒」をなくしてくれる。一方で、
―女将が宿泊客の名前を覚えていること。
―寿司屋の大将との何気ない会話。
―朝六時の神社に流れる静かな空気。
―地方の祭りで地域の人と笑い合う時間。
こういった体験はAIでは生み出せない。
旅行、観光の世界では、すべての「Friction – 摩擦」をなくせばいいわけではない。なくすべきなのは、「不便」という摩擦だ。一方で、人との出会いや文化との接触といった「意味のある摩擦」は、旅の価値そのものになる。
AIは、おもてなしを代替する技術ではなく、人がおもてなしに集中できる時間を生み出す技術である。
だからこそAI時代に価値を持つのが、地域固有の文化や歴史、人と人とのつながりであり、WiT Japanで繰り返し語られたQuiet Powerだ。
私がQuiet Powerと呼ぶのは、
―女将が宿泊客の名前を覚えていること。
―寿司屋の大将との何気ない会話。
―朝の神社に流れる静かな空気。
―地域の祭りで地元の人と笑い合う時間。
こういったAIには再現できない、人や土地が生み出す偶発性である。日本には、そのQuiet Powerが豊富に存在する。
文化資産が凝縮する日本だからこそ「あなただけの旅」が実現する
しかし、日本がAI時代に有利なのは、それだけではない。もう一つ理由がある。それは「密度」だ。
私は以前から、日本は観光立国として「アジアのイタリア」になれると言ってきた
―長い歴史
―地域ごとに異なる文化
―食
―職人
―デザイン
―海に囲まれた地理
―世界中にファンを持つコンテンツ
イタリアと日本には驚くほど多くの共通点がある。しかし今、私は考えが少し変わってきている。日本は、「アジアのイタリア」を目指す必要すらないのではないか、ということだ。
日本は半径50キロの中に、温泉があり、酒蔵があり、神社があり、世界トップレベルのレストランがあり、職人がいて、アニメ文化があり、四季がある。そして、新幹線などで容易に移動できる。これほど多様な文化資産が、高い品質でコンパクトに集積している国は世界でも珍しい。
旅行サイトは長年、「100万件のホテルがあります」と言って競ってきた。しかしAI時代に旅行者が求めるのは100万件ではない。
「あなたにおススメするなら、この5軒です」という提案だ。
旅行業界の価値は、情報の量から、パーソナライズされた編集の質へと移っていくはずだ。AI時代、日本は単に「大量の観光コンテンツ」を提供する国ではなく、「旅行者個人にとってパーソナライズされた深く記憶に残る体験」を提供できる国なのである。
アニメは入口、地域との出会いが旅の価値になる
WiT Japanにてエコノミストのジェスパー・コール氏は、日本のソフトパワーの強さを紹介した。
「ポケモン」「マリオ」「ハローキティ」「ドラゴンボール」「ワンピース」
世界におけるトップ25のキャラクターのうち日本はトップ2(ポケモン、ハローキティ)を含む10のキャラクターを生み出している。こうしたソフト資産は世界中の人々が、日本を知る入口になっている。
▲WiT Japanに登壇したエコノミストのジェスパー・コール氏の資料(筆者提供)
しかし観光の本当の価値は、その先にある。
旅行者はアニメをきっかけに日本へ来る。そして旅行を通して記憶に刻まれるのは、地方の祭りであり、温泉であり、旅館であり、商店街であり、地域の人との出会いとなる。つまり、Soft Powerが入口なら、Quiet Powerは目的地となる。
AI活用で出遅れる日本、それでも残る勝機
昨今、観光産業を含め、人口減少や人手不足は、日本の弱みとして語られることが多い。しかしエコノミストのジェスパー・コール氏が語ったように、
「Scarcity creates innovation. – 制約はイノベーションを生む」と強く感じる。
AIはその象徴だ。人手不足という制約が結果としてAI活用を加速させる。制約は、日本の弱みであると同時に、変革を促す力にもなり得る。その意味で日本はAI時代において有利な立場にあると言える。
もっとも、日本がAI時代に有利な立場にあると言っても、現状を楽観視しているわけではない。実際、日本のAI活用は主要国の中で大きく後れを取っている。
総務省「情報通信白書2025」の国際比較調査によれば、生成AIの利用経験率は、中国81.2%、米国68.8%、ドイツ59.2%に対し、日本は26.7%にとどまる。企業においても、生成AIを業務で活用している企業は約3割に過ぎず、世界と比べると普及はまだ道半ばである。
しかし私は、この数字だけを見て悲観する必要はないと考えている。興味深いのは、日本では利用率こそ低いものの、欧州のようにAIそのものに強い拒否感を持つ社会ではないという点だ。
欧州では、個人情報保護や労働者保護を背景に、世界で最も包括的なAI規制であるEU AI Actが制定されるなど、「規制先行」の色合いが強い。一方、日本政府は「イノベーションとリスク管理の両立」という立場を取り、社会全体としてもAIを全面的に否定する空気は強くない。
世界47カ国・約4万8,000人を対象にしたKPMGとメルボルン大学の調査でも、先進国ではAIを信頼する人は約4割にとどまり、新興国より慎重な姿勢が目立つ。またIpsosの調査でも、西欧諸国ではAIへの期待と不安が拮抗している。
つまり日本は、AI活用では出遅れている一方で、社会的な受容性という点ではまだ十分にキャッチアップできる余地を残しているのである。
▲日本におけるAIへの不安感は諸外国と比べても低い(筆者提供)
AI時代に差がつくのは、地域の価値を伝える力
AIはまだ黎明期にある。重要なのは、他国より早くAIを導入したかではない。
「AIを使って、日本ならではの価値をどう世界へ届けるか」
そこにこそ、日本の勝機がある。
これまで地方の宿泊施設や体験事業者にとって、多言語対応や海外への情報発信は大きな負担だった。しかしAIによって、小さな事業者でも世界中の旅行者と直接つながれる時代が始まっている。だからこそ、地域の観光事業者やDMO、自治体がこれから競うべきなのは、「AIを導入しているかどうか」ではない。
AIは、いずれ誰もが使えるようになる。差がつくのは、自分たちの地域にしかないQuiet Powerを、どれだけ言語化し、データ化し、体験として設計し、それをAIが理解できる形で届けられるかである。AI時代は、大企業よりも、独自性を持つ地域にこそ追い風が吹くであろう。
観光が、世界中の人材と地域をつなぐきっかけに
そして、もう一つ重要なのは「人」である。
人口減少が進む日本にとって、観光政策と人材政策は、もはや切り離して考えることはできない。
私たちが目指すべきなのは、訪日客を増やすことだけではない。
―日本で働きたい
―学びたい
―起業したい
―投資したい
そう考える世界中の人材を地域に迎え入れ、ともに地域の未来をつくることである。
観光は、人を一時的に呼び込むだけの産業ではない。観光はゴールではなく、世界中の才能と地域をつなぐ入口である。旅行者がリピーターになり、関係人口になり、やがて地域で働き、事業を立ち上げ、新しい価値を生み出す担い手になる。そんな循環を生み出せたとき、観光は一つの産業ではなく、地域の持続的な成長を支える基盤へと変わる。
20世紀の観光は、「何人来たか」の競争だった。21世紀前半は、「いくら使ったか」の競争になった。しかしAI時代の競争は、その先にある。
どれだけ深く日本とつながりたいと思う人を増やせるか。
その競争である。
AIは、その未来を支える強力な道具である。しかし主役ではない。
主役は、人であり、地域であり、日本が持つQuiet Powerである。
Soft Powerで世界を惹きつけ、Quiet Powerで世界を魅了する。
そして観光を起点に、人材、知識、資本、イノベーションが地域へと循環するエコシステムを築くことができれば、日本は「アジアのイタリア」を目指す必要すらなくなるだろう。
AI時代、日本が目指すべきは「訪れたい国」であるだけではない。
「もう一度戻りたい」「ここで働きたい」「ここで暮らしたい」「ここで挑戦したい」
そう思われる国である。
観光は、そのすべての始まりになる。私は、それこそがAI時代に日本が目指すべき、世界にまだ存在しない新しい観光立国の姿だと考えている。
著者プロフィール:
柴田 啓 トラベルjp(株式会社ベンチャ
ーリパブリック)およびTrip101共同創業者・元CEO。WiT Japan共同創業者
シンガポールと東京を拠点とした旅行テック領域の起業家として、20年以上にわたりグローバルな旅行プラットフォームの立ち上げと成長を牽引。2001年にベンチャーリパブリック、2015年にTrip101を共同創業し、CEOとして上場、MBO(経営陣による買収)、複数のエグジットをリード。ベンチャーリパブリックでは日本最大級の旅行メタサーチ・メディア「トラベルjp」を、Trip101では世界200カ国以上から利用される旅行コンテンツプラットフォームを展開。2012年には旅行業界のテクノロジーとイノベーションに焦点を当てた国際カンファレンス「WiT Japan」を立ち上げ、現在も毎年開催している。さらに、アジア太平洋地域を中心に、旅行・テクノロジー分野のスタートアップへのアーリーステージ投資にも携わる。ハーバード・ビジネス・スクール(MBA)、慶應義塾大学卒。プライベートではバックカントリー・スノーボード、ジャズ、コーヒー、旅先でのワーケーションを楽しむ。
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