インバウンド特集レポート
「6000万人、15兆円」。数字だけを見ると、観光産業には大きな追い風が吹いているように見える。
「第5次観光立国推進基本計画」では、この大きな目標を維持しながら、消費額拡大、地方誘客、住民生活との両立、観光産業の強靱化なども重視されている。
つまり、今回の基本計画の本質は、数字の達成そのものではなく、その需要をいかに「地域に残る価値」へ変えられるかにある。
現実には、地域に素晴らしい魅力があっても、それが「選ばれ、予約され、利益が残る構造」になっていないケースも少なくない。本稿では、地域や事業者がこの大きな流れを地域の活力や住民生活の質、働き手への還元といった「地域に残る価値」へと変えるために必要な視点を考えてみたい。

数字の先に、地域間格差という現実がある
この目標は、日本全体としては大きな成長シナリオである。2025年時点で訪日外国人旅行者数は4268万人、訪日外国人旅行消費額は9.5兆円に達しており、観光の存在感は大きくなっている。
しかし、地域や事業者にとって重要なのは、日本全体の総量ではない。
訪日客が増えても、その人たちが自地域に来るとは限らない。来たとしても、宿泊や体験、飲食、買い物につながるとは限らない。受け入れ体制が整っていない地域では、混雑、マナー、交通、人手不足といった負担が先に表れる可能性もある。
第5次計画では、特定の都市・地域への集中是正、オーバーツーリズムの未然防止、地方誘客、交通ネットワークの機能強化などが重視されている。需要が増えれば自然に地方へ分散するわけではなく、地域側の受け入れ構造や移動環境、商品設計が問われるということだ。
6000万人時代は、地方に平等にチャンスが配られる時代ではない。選ばれる準備ができた地域と、そうでない地域の差が広がる時代でもある。
もちろん、これは地域の努力不足という話ではない。空港、二次交通、宿泊、人材、販売チャネルなど、地域単独では解決しにくい条件も多い。だからこそ、国の目標をそのまま受け止めるのではなく、自地域がどの条件を持ち、どこに不足があるのかを見極める必要がある。
問うべきは、来訪者数ではなく「地域に何が残るか」
インバウンド需要が伸びると、まず見えるのは来訪者数や売上である。ただし、客数や売上が伸びることと、地域や事業者に価値が残ることは同じではない。
やまとごころ.jpが2026年4月に実施した読者アンケートでも、訪日客数や売上の増加を感じる声は多い一方で、利益の増加を感じている層は3割弱にとどまった。客数や売上が伸びても、十分な利益が残るとは限らない。
地域にとって本当に重要なのは、その伸びが利益として残っているか、雇用を支えているか、担い手が続けられる状態につながっているか、住民が納得できる観光になっているかである。
客数が増えても、現場が疲弊し、利益が薄く、住民には混雑や負担だけが残るのであれば、それは地域を元気にする観光とは言いにくい。逆に、来訪者数は限られていても、地域の事業者に適正な利益が残り、働く人に還元され、次の投資につながるなら、その観光は地域にとって意味を持つ。
観光は本来、地域を元気にし、住民の生活の質を高めるための手段であるはずだ。第5次計画でも、「住んでよし」「訪れてよし」に加え、「働いてよし」の観光産業の実現が掲げられている。
高付加価値化とは、単に価格を上げることではない。価値が伝わらないまま価格だけを上げても、選ばれない。価値が伝わり、期待に応えられるからこそ、地域は過度な価格競争から抜け出し、働き手に還元する余地を持てる。
問うべきは、観光客が何人来たかだけではない。増えた需要を、地域の利益、雇用、担い手の継続、住民の納得へ変えられているかである。

「来てほしい人」と「満足させられる人」は同じか
インバウンド戦略では、「欧米豪を狙う」「富裕層を狙う」「リピーターを狙う」といった言葉がよく使われる。もちろん、市場を定め、来てほしい人を描くことは大切だ。地域としてどのような観光を目指すのか、どのような旅行者に選ばれたいのかという、ありたい姿から戦略を考えることもある。
ただし、そのありたい姿と現在の地域の受け皿が大きく離れている場合、実現には大きな投資や長い時間が必要になる。宿泊、食、ガイド、交通、価格帯、販売ネットワークまで含めて整える必要があり、一つの民間事業者だけで完結する話でもない。
問うべきは、その人が今の地域を選ぶ理由があるのか、来た後に満足できる受け皿があるのか、地域側が届けたい価値と旅行者が求める価値が重なっているのかである。
リピーターは地方部への訪問意欲が高いとされるが、リピーターを狙うこと自体が目的ではない。自地域の資源、宿泊環境、食、ガイド人材、交通、価格帯、販売ネットワークと照らし合わせて、誰なら満足してもらえるのかを見極めることが先である。
ターゲットは、願望だけでも、現状の延長だけでも不十分である。来てほしい人と、今満足させられる人。その距離を見極め、どう埋めるかを考えることが戦略になる。
地域の魅力を「売れる設計」に変えられるか
近年、観光コンテンツや体験商品は確実に増えている。補助事業や造成事業を通じて、地域の歴史、文化、自然、食、人を生かした商品も各地で生まれてきた。それでも、売れていない商品は少なくない。商品が増えたことと、売れることは別である。
商品をつくったものの、思うように予約につながらない。旅行会社に紹介しても反応が薄い。OTAに掲載しても動かない。そうしたケースは珍しくない。
売れない商品が増えることには、副作用もある。関係者が疲弊し、「インバウンドはうまくいかない」「儲からない」「自地域や自社には合っていない」という実感だけが残ってしまうことだ。本来は可能性があるにもかかわらず、最初の失敗体験によって取り組みが止まってしまうこともある。
その背景には、商品をつくってから売り方を考える、という順番の問題もある。誰に届けるのか、その人は何に価値を感じるのか、どの旅程の中で選ばれるのか、どの価格なら納得されるのか。そこが曖昧なままでは、地域側が売りたいものと、旅行者や旅行会社が選びたいもののズレは埋まらない。
売れない経験を積み重ねないためにも、商品をつくる前に、誰に届け、どう選ばれ、どう売るのかまで考える必要がある。商品をつくるだけでは、もう足りない。
さらに、観光客がすでに来ている地域と、まだ観光客が多くない地域では、売れるための条件が違う。すでに観光客が来ている地域であれば、既存の来訪者にどう届けるかが重要になる。滞在時間を延ばす、日帰り客を体験や宿泊につなげる、主要観光地から周辺へ回遊させるなど、旅行者が接する導線上に商品を置く必要がある。
一方で、まだ観光客が多くない地域では、体験商品を一つ作るだけでは弱い。その商品が、わざわざその地域まで行く理由になるのか。あるいは、周辺の有名地域や既存ルートと組み合わせることで、旅程に自然に入る導線があるのか。ここを見なければ、商品だけが孤立してしまう。
いま必要なのは、商品造成そのものではない。地域の魅力を、顧客ニーズ、訪問動線、販売チャネル、受け入れ体制とつなぎ、「売れる設計」に変えられるかである。
発信は入口にすぎない。知られ、選ばれ、予約され、体験され、地域にお金と仕事が残るところまでつながって初めて、観光は地域の力になる。
観光を「地域に残る価値」へ変えるための5つの問い
6000万人・15兆円という目標は、日本の観光産業にとって大きな成長のシグナルである。しかし、その恩恵は、すべての地域・事業者に等しく分配されるわけではない。
そしてもう一つ、6000万人時代には「増やす」ことだけでなく、何を守り、何をやめ、どこに力を集中するかを決める視点も欠かせない。人手不足や住民負担がある中で、すべてを受け入れ、すべてのサービスを維持することは難しい。さらに、物価高騰や人件費上昇も進んでいる。少ない人員でも価値を出せる仕組みや、利益が残るビジネスモデルを考えなければ、取り組みは続かない。
最後に、地域や事業者が持つべき問いを整理したい。
1つ目は、自地域・自社は、誰に価値を届け、満足してもらえるのか。来てほしい人を描くだけでなく、その人を本当に満足させられる受け皿があるか。
2つ目は、その顧客が、わざわざその地域を選ぶ理由はあるか。既存の訪問動線に乗れるのか、それ自体が旅の目的になるだけの強さがあるのか。
3つ目は、その商品や体験は、選ばれ、予約される状態になっているか。顧客ニーズ、価格、所要時間、予約条件、販売チャネル、移動手段は整っているか。
4つ目は、限られた人員と体制で、続けられる設計になっているか。誰が担い、誰が売り、誰が責任を持つのか。人材不足や物価高騰を前提に、利益が残り、現場が疲弊しない仕組みになっているか。
5つ目は、観光の成果は、地域に残る価値へ変わっているか。売上だけでなく、利益、雇用、住民の納得、働き手への還元、次の投資につながっているか。
6000万人・15兆円時代は、待っている地域のものではない。国の目標を自分たちの戦略に翻訳し、誰に価値を届けるのかを決め、売れる設計に整え、地域に残る価値をつくれる地域・事業者のものになる。
すべてを一度に整える必要はない。まずは、自地域・自社にとって相性のよい顧客を一つ定め、その人にとって選ぶ理由があるか、売れる形になっているかを見直すことから始めればよい。
観光は、地域に負荷をかけるものにもなり得る。一方で、設計次第では、地域の誇りや仕事、次の投資を生み出し、住民の暮らしを支える力にもなる。6000万人時代を、地域に残る価値へ変えられるかどうかは、これからの地域と事業者の選択にかかっている。
著者プロフィール:
株式会社やまとごころ 代表取締役
インバウンド戦略アドバイザー 村山慶輔
神戸市出身。米国ウィスコンシン大学マディソン校卒業後、アクセンチュアを経て、2007年にインバウンド観光情報サイト「やまとごころ.jp」を立ち上げる。以来、観光事業者・自治体・DMO等に向けて、情報発信、人材育成、研修、コンサルティングを通じ、インバウンド戦略の立案・実行を支援。観光庁をはじめ、国や地域の観光政策・事業に関する委員・アドバイザー等を務め、持続可能な観光地域づくりにも取り組む。著書に『観光再生』など計10冊。やまとごころ.jpでは、観光・インバウンドの現場視点を綴る連載「観光フィールドノート」を執筆中。
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